1. はじめに──二つの異なる思考の出会い
アルジェ出身の哲学者ジャック・デリダ(1930–2004)とフランスの数学者アラン・コンヌ(1947–)は、一見するとまったく異なる領域の探究者である。
前者は「脱構築」の思索家であり、「差延」や「痕跡」といった概念によって西洋形而上学の前提を揺るがした人物だ。後者は「非可換幾何学」という革命的な数学理論を創始し、従来の可換(交換可能)な空間概念を拡張して物理学の基礎を書き換えた巨匠である。
それぞれ哲学と言語の領域、数学と物理の領域に属するが、本稿はこの二人の思考を哲学的に架橋し、数理哲学・存在論・意味論の観点から両者の共鳴構造を探究する試みである。デリダの提起した「差延」の構造に内在する時間性と痕跡の概念と、コンヌの非可換幾何学によって再構成される空間・時間および真理と記述の非対称性を比較検討し、両者に潜む共通のモチーフを浮かび上がらせたい。
デリダの脱構築は、「現前」という形而上学的前提(あらゆる意味や存在が直接的に目前に与えられるという考え)を批判し、意味が常に差異と遅延によって成り立つことを示した。一方、コンヌの非可換幾何学は、空間を点の集合や座標の枠組としてではなく、演算子代数(作用素環)という記述を通じて捉え直す。従来の幾何学では空間上の関数(座標関数)は交換可能であるが、コンヌはあえて交換不可能(非可換)な代数を「空間」と見立てることで、新たな真理像を描き出した。
本稿では、「時間と痕跡」、「差延と非可換性」、「真理値・構造・決定不能性」、「言語・記述・形式の限界」という主題を横断的に論じる。デリダとコンヌの概念を相互に引用・再構成しながら、読者を二つの思考の出会いへと導いていきたい。
2. 痕跡としての時間:デリダとコンヌの“時間論”
デリダによれば、私たちが経験する現在の瞬間は決して純粋な現在ではなく、常に過去の残響と未来への予期を含んでいる。今ここで起きている出来事は「痕跡 (trace)」によって構成されており、そこには既に不在の要素が潜んでいる。例えば、何かを「いま」知覚するとき、直前の記憶(過去)と直後への予測(未来)が含まれており、その繰り返し可能性=痕跡こそが経験の条件になっている。デリダはこの時間性の構造を指して「時間は常にずれている」と述べ、ハムレットの言葉を引用して「時間は“軸から外れている” (time is ‘out of joint’)」と表現する。現在は常に遅れてやって来て、決して完全に目前に現前しない。
これがデリダの言う「差延」における時間のあり方であり、原初から時間は異質なものに裂かれている(デリダはこれを「起源の異質性」と呼ぶ)。したがって「それ自体としての真理は存在しない」のであり、あらゆる経験は何かが他者として交じりこんだ形でしか与えられない。時間の起源には常に痕跡という他者性が潜んでいるのだ。
興味深いことに、コンヌの非可換幾何学でも「時間」は従来のイメージから大きく捉え直される。古典物理学で、時間は絶対的なパラメータ、あるいは相対論でも空間と対等に置かれる座標軸の一つと見なされてきた。だが量子論や重力理論の最前線では、時間は必ずしも根本的な実体ではなく、さらに深い構造の側から――しかも“状態しだい”で――立ち現れる可能性が指摘されている。
コンヌと物理学者カルロ・ロヴェッリは、この見方を非可換幾何学の言語で精緻に示した。要点はこうだ。まず、通常の「点の集まりとしての空間」を捨て、演算子(作用素)がつくる代数そのものを“空間”と見立てる。そこに「温度をもつ量子的な状態」を一つ固定する。すると富田=竹崎理論が働き、その代数の上に「一秒ごとに自己変身する」ような連続写像の族、要するに1パラメータの自己同型群が自然に生まれる。
驚くべきは、この自己同型群が物理的な時間とみなせる点だ。系を熱平衡(いわゆるギブス状態)に置けば、そこで得られる“内部時間”の流れは、従来ハミルトニアンが記述してきた熱力学的時間発展ときれいに一致する。要するに、非可換幾何の内部では時間は外から与えられる絶対軸ではなく、特定の量子状態が「代数の中をどう震わせるか」という関係から固有に生じる──時間は状態に依存して、文字どおり代数の奥から湧き上がるのである。
「時間の流れには統計的(熱力学的)起源がある」とも表現されるこの洞察は、時間を絶対視する従来の見方を根底から覆す。コンヌ自身、「この外部から現れる時間という概念こそ物理における『創発する時間』の有力な候補である」と述べている。デリダが現在の経験の内部に痕跡=不在の働きを見いだしたように、コンヌは物理系の内部構造に時間の源泉を見いだしたと言えよう。
両者に共通するのは、時間を完全に自己完結的な現在・時計の流れとは捉えず、常に他者(過去・未来や状態)の関与する、ずれた構造として把握している点である。デリダの語る「時間のずれ(anachronism)」は同時に「空間のずれ (espacement、間隔化)」をも意味すると彼自身述べている。次節では、この「差延の空間」というテーマに焦点を当て、空間・意味の生成に関する両者の洞察を比較する。
3. 差延の空間:可換性の破れと意味生成
デリダの概念「差延 (différance)」には時間の遅延(延引)と空間の差異(区別)という二重の意味が込められている(différer=「異なる」「延期する」の両義を持つフランス語に由来する造語)。彼は言語における意味は、その瞬間に完結して確定するものではなく、他の語との差異関係によって初めて生じ、しかもその差異関係は常に変化し続けると指摘した。ある記号(語や文)の意味は、その記号単独から生じるのではなく、過去に蓄積された用法の痕跡を引きずり、未来の文脈において新たに変容しうるものとして決定不能な余地を残す。このように意味は他との差異によって生成し、常に他へと開かれているのであり、言語における「空間」とは固定的な秩序ではなく差異がゆらめく場だといえる。
言語的意味の成立条件としての「差異」の重要性を強調するデリダの議論は、数学的空間の捉え方を革新したコンヌの議論と響き合う。コンヌは、従来の幾何学における空間概念(点の集合や座標系による記述)は、 可換な代数すなわち交換可能な関数の集まりと双対的な関係にあることに注目した。例えば位相空間X上の連続関数全体C(X)は可換な環をなし、空間Xはその可換環から復元できる(ゲルファンド双対性)。ところがコンヌは、この対応を大胆に一般化し、非可換な代数(一般には行列や演算子が成すような交換法則の成り立たない代数)にも「対応する空間」を考えることを提唱した。
彼はこの未知の対象を「非可換空間」と呼び、従来の点集合的な空間概念を遥かに拡張したのである。直観的に言えば、非可換空間では「座標同士」が同時に測定可能な確定的値を持たず、座標を入れ替えると結果が変わってしまうような状況を許容する。これは古典幾何学から見れば可換性という対称性の破れであり、まさに「差異」が空間構造の核心に据えられていることを意味する。
この抽象的な概念は、決して数学上の思考実験に留まらない。実際、非可換幾何学の枠組みは物理学、とりわけ量子論と宇宙論の交差点で多大な成果を上げている。コンヌは、4次元時空の座標に微小な非可換性(観測順序によって結果が変わる性質)を導入したモデルにより、素粒子物理学の標準模型(基本的な素粒子と力の理論)を純粋に幾何学的な原理から再現できることを示した。彼の描く「非可換な4次元時空モデル」からは、質量や対称性の破れといった現象が自ずと現れ、我々の物理的世界の法則が幾何学的に読み解かれるという驚くべき結果が得られている。
これはちょうど、デリダがテクストの隙間に潜む差異の構造から、従来固定的と考えられていた意味や価値の体系(例えば形而上学的二項対立)を再解釈してみせたことに呼応しているように思われる。
言語において語順を入れ替えれば意味が変わってしまう(例:「犬が人を噛む」と「人が犬を噛む」)ように、文脈次第で記号の意味が反転しうることは日常的にも理解できる。このような非可換性(順序依存性)は、物理の世界でも「観測の文脈によって結果が変わる」量子現象として現れる。典型的には、あるオブザーバブルAと別のオブザーバブルBが同時には確定した値を持ちえず、AB ≠ BAという関係が成立する(観測順序が結果に影響する)。
コンヌの非可換幾何学は、この量子的な非対称性を幾何学そのものに内包することで、これまで記述不可能だった微細な空間構造や物質の振る舞いを捉える新たな言語を提供した。それは、古典的手法の手の届かなかった対象に光を当てる革新的アプローチであり、デリダの脱構築が伝統的哲学の射程外にあった問題(言語の曖昧性やテクストに潜む矛盾)を照らし出したことに重なる。
要するに、デリダの差延とコンヌの非可換空間はいずれも、対称的で静的な構造を崩し、差異に満ちた動的な生成の場として時空/テクストを捉え直していると言える。差延の空間では、記号の意味は他との差異によって無限に生成・変容し、非可換幾何の空間では、座標(記述子)の非対称な相互作用から豊かな物理的現象が紡ぎ出される。両者は領域こそ違えど、「差異こそが構造を生み出す源泉である」という点で深く響きあっている。
4. 非可換的構造と決定不能性:存在と記述の分裂
デリダが提示した脱構築のもう一つの要点は、テクストや概念の内部にある「決定不能なもの」である。彼は伝統的な二項対立(例えば真理/虚偽、善/悪、内面/外見といった対立項)の間に、それらどちらにも明確に属さない揺らぎの要素が潜むことを示した。デリダがしばしば言及する「薬とも毒ともなるファルマコン」や「真でも偽でもない差延そのもの」といった例は、論理的に決着のつかない曖昧性を指している。
彼はこのような現象を「決定不能(undecidable)」と呼び、形式論理における決定不能命題との類比を見出した。実際デリダ自身、1970年の討論において、自らの言う「決定不能なもの」とゲーデルの不完全性定理で示された形式体系内の決定不能命題とのアナロジーを指摘している。
ゲーデルの不完全性定理とは、十分に豊かな無矛盾な形式体系には、その体系内では証明も反証もできない命題が必ず存在することを示した定理である。この結果は、いかなる公理体系(記述の枠組)も、それ自身では捉えきれない真理(存在)が残余として存在することを意味した。コンヌはこのゲーデルの洞察に深い関心を寄せ、数学的存在論においてそれが持つ意味を吟味している。彼の対話集では「ゲーデルの不完全性定理の最も深遠な意味は、数学が決して単なる形式言語に還元できないことを示した点にある」と述べられている。つまり数学的対象の世界(例えば自然数の構造)は、人間が作るどのような公理的記述よりも無限の情報内容を持つのであり、一種の「記述から独立した実在」を示唆している。
この状況はデリダの言う「常に差異に開かれた意味」と相通じる。テクストのどんな記述も決して完全にその意味(あるいは意図、存在)を尽くすことはできず、必ず何か余剰なものや欠如が生じる。デリダはまさに、意味の起源(=存在)が異質なものによって割り込まれており、「純粋な起源」という神話は成り立たないことを示したのであった。彼の語る「痕跡」や「差延」は、存在と記述(表示)のあいだの埋めがたい裂け目を指し示している。それは「存在そのもの」は常に直接的な表現を拒み、なにがしかの媒介(痕跡)を通じてしか現れないという事態である。したがって、存在=真理と記述=言語は完全には合致せず、その非対称・非同期が世界の根底に横たわっていることになる。
コンヌの非可換幾何学も、別の角度からこの存在と記述の分裂に迫っているように見える。彼の数学におけるアプローチは、「従来の記述(可換幾何学の言語)では捉えられない存在論的対象を捉えるには、記述の枠組そのものを拡張せねばならない」という動機に支えられていた。例えば、通常の連続空間では点の集まりとして記述できないような非常に複雑な空間(例:葉層空間のようなフラクタル的構造)も、非可換幾何の言語を用いれば解析が可能になる。ここでは「存在(空間そのもの)の側」が先にあり、それに適合するよう言語(数学的記述)の側を柔軟に変形させているとも言えるだろう。
同様に、ゲーデル的な不完全性が示すところは、「真理の存在」が「証明という記述」を常に超えてしまうという事実であったが、数学はそれに応じて公理系を拡張したり新たな概念を導入したりと、自らの言語を変容させ続けている。コンヌの非可換幾何学も、そのような自己越境的な記述の営みの一環と位置づけられる。実際、コンヌは数学的真理についてプラトニックな実在論に近い立場をとっており、数学的対象は人間の脳とは独立に存在しうると考える。だからこそ、数学者は常に新たな言語を模索し、未知の真理へと橋を架けていく必要があるのだ。
デリダとコンヌの思考のこの側面から浮かび上がるのは、いかなる体系にも収まらない真理の存在と、その真理に接近しようとする記述の不断の試行という図式である。デリダは「テクスト(記述)は常に自らを裏切る痕跡を内部に孕む」と述べ、哲学的テクストが自己解体する可能性を指摘した。それは論理のレベルでは自己言及的なパラドクスとして現れる(ゲーデルの証明も自己言及から不完全性が導かれた)し、文学・哲学のレベルでは読解不能性や両義性として現れる。コンヌの数学は、そのようなパラドクスを乗り越えるために従来の枠組を一歩外に踏み出すものであった。こうして見てくると、存在(真理)と記述(言語)の分裂は両者に共通するテーマであり、それに対してデリダは脱構築という批判と遊戯を、コンヌは非可換という拡張と刷新を、それぞれ応答として提示しているように思われる。
5. 形式なき形式:真理値、言語、そして図式の彼方へ
デリダとコンヌの思索を踏まえると、我々は伝統的な意味での「形式」概念そのものを見直さねばならなくなる。古典的な論理や哲学では、命題は真か偽かという二値の真理値を持ち、概念体系には明確な定義域と適用範囲があると考えられてきた。しかしデリダは、言語における意味は二値的な論理では捉えきれない揺らぎを本質的に含むと主張した。あるテクストが発するメッセージは、それが単に「真である」か「偽である」かでは評価できず、文脈によっては真にも偽にも読めてしまうような曖昧性(アポリア)を孕む。また、言語表現は書き手や話し手の意図から独立して流通し、多様な解釈を誘発する。ここでは真理値さえも文脈依存的で流動的なものとなり、固定的な形式から零れ落ちてしまう。
デリダはこのような性質を示す言語一般のことを「アルシ=エクリチュール (archi-écriture、原記述)」とも呼び、現前的な意味を伝達する媒体というよりは、むしろ意味が常に差延を伴って生成する場そのものとして捉えた。それは特定の文字体系や記号体系に限定されない抽象的な「書き込み」の働きであり、一種の「形式なき形式」と言える。何らかの形をとって現れるときには既に痕跡として歪んでおり、完全なかたちでは現れないような原初的プロセスが、デリダの言うアルシ=エクリチュール(=痕跡)の構造なのである。
コンヌの非可換幾何学もまた、「形式の彼方」への挑戦であったと捉えられる。通常、幾何学的対象は図形やグラフとして視覚化でき、その形式(フォルム)は我々に直観的に与えられる。しかし非可換幾何学が扱う空間は、もはや単純に図示したり視覚化したりできるものではない。点の概念さえ曖昧になり、直接見ることのできる「かたち」を持たない空間――例えばフラクタル次元の空間や、量子的な揺らぎで曖昧になった時空の構造――を相手にするために、コンヌはスペクトル三重項という代数的データの組み合わせで空間を記述する手法を考案した。そこでは空間はもはや点の集合ではなく、「ある演算子がどのようなスペクトル(固有値)を持つか」という情報によって特徴付けられる。たとえるなら、音楽の和音を分析するときに個々の音(点)を見るのではなく、全体の周波数スペクトル(音の分布)を見るようなものである。形のない振動パターンとして空間を把握するとでも言おうか。
非可換幾何学は、旧来の図式には収まらないこのような空間を扱うための言語であり、それ自体視覚的直観を超えた抽象的形式である。だが興味深いことに、その抽象的枠組から具体的な数値的予言(例えば素粒子の質量や結合定数の関係)を導き出すことができる。これはちょうど、デリダのアルシ=エクリチュールという概念が、一見すると何の定形も持たないポエティックな議論に思えるにもかかわらず、実際には西洋形而上学の諸テクストを再読し具体的な批評的知見をもたらしたことになぞらえられる。定まった形式を持たないものが、逆に新たな真理や意味を生み出すというパラドクスは、ここに両者の領域を超えて現れている。
さらに、「図式の彼方へ」と言うとき、我々は認識の枠組そのものを問うている。カント哲学における図式(スキーマ)は、概念と直観を仲立ちする心的手続きであったが、デリダやコンヌの議論を経ると、その図式自体が流動化し解体されてしまうように思われる。もはや固定的な図式ではなく、生成変化する過程こそが前景化するからだ。デリダ的な視点からすれば、我々は常に既存のカテゴリーには収まらない何ものかを相手に思考しており、そのため思考の言語も自ずと詩的・比喩的なものに変容せざるを得ない(デリダ自身の文体がしばしばそうであるように)。コンヌ的な視点からすれば、我々の理性が捉えようとする真理は常に未知の地平を含んでおり、それに対応するためには数学の言語さえ拡張・抽象化していく必要がある(非可換幾何学の高度な代数的形式はその一例である)。
形式の限界に挑むこの二人の営みは、それぞれ方法は異なれど、「真理とは常に既存の形式を越えて現れる」という一点で交わっているように思える。そしてこの交点に立つとき、我々の思考そのものが問われる。真理値がぐらつき、言語の輪郭がぼやけ、図式が震えだすような地点で、それでもなお思考し表現しようとする態度こそ、デリダとコンヌに共通する哲学的胆力ではないだろうか。
6. おわりに──差延と震えの哲学
ここまで見てきたように、ジャック・デリダの脱構築思想とアラン・コンヌの非可換幾何学は、領域の違いを超えて多くの共鳴点を持っている。時間は直線的な現在の連続ではなく痕跡の織りなす差異のネットワークとして現れ、空間は点と座標の静的秩序ではなく非可換的な関係性の中に立ち現れる構造として再解釈される。真理は絶対的な基盤としては存在せず、常にテクストを超えて揺らぎ、言語と存在の間には埋め難いずれが走っている。
それゆえ我々は、真理そのものを固定的に把握するのではなく、差延に開かれた動的なプロセスとして把握せねばならない。デリダと言語哲学の文脈で語られたこの洞察が、コンヌの数学と物理の文脈で再び確認されるという事実は、極めて示唆的である。それは、人間の思考と言語、そして自然世界の構造に共通する深い原理があることを示唆しているように思われる。
では、その原理とは何か。一言で言えば、「差異と非対称性から秩序が生まれる」という原理であるかもしれない。完全に静止した対称的な体系からは何の情報も生まれないように、わずかな揺らぎや非対称こそが構造を生み、真理を浮かび上がらせる契機となる。デリダの哲学は意味の根源にある微かな揺らぎ(痕跡の閾で垣間見えるもの)に光を当てたし、コンヌの数学は空間と時間の微細な非対称性(非可換の関係性)が巨視的な法則を生むことを明らかにした。
この二つの試みは、共に「震え」というモチーフで表現できるかもしれない。デリダ自身、「古いラテン語のsollicitare(動揺させる)という語は『全体を揺さぶり、全体を震えさせること』を意味する」と述べている。彼の脱構築はまさに既成の哲学的構造を根底から揺さぶり、その安定性を失わせる営みだった。同様に、コンヌの非可換幾何学もまた、ユークリッド的な空間概念や古典的実在観を揺るがし、新たな地平を開いた点で「世界の基盤を震えさせた」のである。
差延と非可換性によって伝統的な構造が解体されるとき、一見すると我々は足場を失い、混沌に直面するようにも思える。しかし、デリダもコンヌも混沌を称揚しているわけではない。むしろ、震え動く基盤の上でこそ現れる秩序や真理の可能性に注目しているのである。デリダは決定不能性の只中から新たな倫理や他者性の思考を紡ぎ出したし、コンヌは非可換な数式の森から宇宙の調和的構造を抽出してみせた。
我々もまた、この二人の思索にならって未知への眼差しと遊戯的精神を持つならば、固定的な観念の殻を破り、新たな理解の地平を開くことができるかもしれない。それは「差延と震えの哲学」とも呼ぶべき態度であり、確固たる基盤がないことを嘆くのではなく、基盤が震えているからこそ生まれる創造的な余地を積極的に生きる哲学である。
デリダとコンヌの対話から立ち上る響きは、我々に思考の勇気と謙虚さを同時に教えてくれる。それは、真理が常に決定不能な余白をまとって現れることへの畏れと、その余白に分け入っていく探究心との二重奏であり、異なる領域の思想同士が交響しあう豊饒な可能性を示していると言えるだろう。
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