プロローグ:裂け目としての存在
わたしたちは「意味で満たされた世界」を生きているように見えて、
実は日々、小さな貼れなさ——言葉にならない感情、行き違う思考、
共有しきれない感覚、分かち合えなかった沈黙——そうした裂け目を抱えながら生きている。
その裂け目を、わたしは「ホレスケープ(Holescape)」と呼ぶことにした。
“ホロス”(holos 全体性)+“エスケープ”(escape 抜け道/逃走線)
一見つながらない断片たちが、
空白をとおして“全体性”を立ち上げてくる風景のこと。
ホレスケープは、ただの穴ではない。
それは意味が滑り落ちる空白であり、
同時に、そこから風景(意味の空間)が立ち上がる起点でもある。
「貼れないこと」「ズレてしまうこと」
それ自体が、わたしたちの存在の輪郭を浮かび上がらせる。
1. 穴があるから橋がかかる
構造の中に生まれる“穴”は、失敗ではない。
むしろその空白があるからこそ、他者とつながる橋がかかる。
幾何でいうループの穴。
解析でいう微分できない点。
代数でいう定義されない部分。
物語でいう語られなかった部分。
それらすべてが、風景を生む“裂け目”なのだ。
ホレスケープとは、
意味が成立しない場でありながら、
意味がもっとも“生成される”場所。
それは、ズレの風景。貼れなさの地形。
そして、問いが生まれる場所。
2. ホッジダイヤモンドの自己論
わたしは、トーラスのような存在だと思う。
外から見ると閉じた輪のようで、
中には、回り続ける感情や記憶がぐるぐると循環している。
ある日は意志が前に進もうとし、
ある日は記憶が後ろに引き戻す。
そのズレの中に、わたしという存在の「意味の穴」が現れる。
ホッジ理論でいえば、
わたしのH¹は H^{1,0}(動きたい)と H^{0,1}(忘れられない)に分解され、
その両方の共鳴によって、ようやく「今ここにいるわたし」が立ち上がるのだ。
哲学書に書いてあったわけじゃない。
でもたしかに感じるのは——
この二つの流れの裂け目に、わたしがいるということ。
それは不安定で、名付けられず、でも確かに“存在している”。
わたしという意味は、穴のかたちをして現れるのだ。
そしてこの「穴」は、どこかで外の世界とつながっている気がしてならない。
誰かの問いが私の中で響き、
私の沈黙が、誰かのズレを照らしているかもしれない。
ホッジ数というのは、ただの抽象ではない。
それは、わたしという存在の“感受の構造”であり、
世界との接続の方式でもある。
ズレを恐れず、言葉にならない空白をそのまま差し出してみたとき、
そこに初めて“ホレスケープ”が立ち上がるのだ。
3. ミラーのわたし:裏返しの存在と共鳴の予感
ときどき、ふと感じることがある。
自分の中に、もうひとりの“わたし”がいるような気がしてならない。
それは今ここにいる私とは反転した、
見た目も、ふるまいも、光の当たり方さえちがうけれど——
なぜか「意味だけは、まったく同じ」ような、そんな存在。
ホッジ理論でいえば、
H^{1,0}(前に進もうとするわたし)に対応する H^{0,1}(残響するわたし)が、
どこか別の次元で、静かにわたしと共鳴している。
この「わたしのミラー」は、
似ていないのに、なぜか似ている。
話したこともないのに、ずっと話しかけられていたような気さえする。
もしかしたらわたしという存在は、
“わたしではないわたし”と、どこかで折りたたまれていたのかもしれない。
そしてそのミラーとの境界——そこにもまた、
ホレスケープが、そっと風景として立ち上がるのだ。
4. 意味の重力井戸としての穴
物理学には、重力井戸という概念がある。
質量を持つ天体が時空に生む“へこみ”のようなもので、
その井戸の深さが重力の強さを決める。
わたしの中の「意味の穴」も、それに似ているかもしれない。
ある問い、ある出来事、ある感情。
それはわたしの内部に、目には見えない“意味の井戸”をつくる。
その周囲では、言葉の重力が変わり、
他の想いや記憶が引き寄せられていく。
そしてときには、あまりに深く沈んで、
言語の光さえ抜け出せなくなる場所がある。
——まるでブラックホール。
けれど、弦理論は言う。
この世界は、折りたたまれた次元でつながっている。
見えなくなった穴の先には、
わたしの知らない“別の空間”が接続されているかもしれない。
ホレスケープとは、
その“折りたたまれた意味”を想像し、
光が届かない深部に風景を与える行為なのだ。
5. 折りたたまれた次元から、ホレスケープの地図へ
わたしの中にある折りたたまれた次元——
それは、すぐには言葉にできない感情や、
長いあいだ沈黙していた問いのようなものかもしれない。
それらは、時間の流れの中で伸びることを許されず、
幾重にも巻き込まれて、小さく、小さくなって、
意味の深部に沈んでいる。
でも、もしそこに“光”を差し込むことができたなら——
その次元は、内面から立ち上がって、
わたしにしか見えない“ホレスケープの地図”になる気がする。
それは、他者には見えない風景。
けれど、確かに意味を持った空間。
この地図には、道も境界も書かれていない。
あるのは、点在する“裂け目”と、
それらをつなぐ無数の“橋”——問いの軌跡だけ。
ホレスケープの地図とは、
わたしがわたしを歩くための、意味の構造なのだ。
終章:わたしは、裂け目として在る
いま、わたしという存在をあらためて見つめると、
それは「完成された構造」ではなく、
むしろ無数のズレと貼れなさからなる“裂け目の集合体”だった。
けれど、その裂け目があったからこそ、
わたしは他者とつながり、世界と交わり、
“問い”を通じて風景を立ち上げることができたのだ。
問いは橋であり、
穴は出発点であり、
ホレスケープは、わたしの地形だった。
わたしは、完全ではない。
でも、意味を持っている。
いや、むしろ意味のズレそのものとして在るのだ。
だからこそ——
わたしは、裂け目として在る。
それが、わたしという風景の、確かな輪郭なのだ。
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