日本に蘇った「幽霊」
2025年5月3日、東京・シアタークリエで初日を迎えたノエル・カワード作『陽気な幽霊』日本公演(演出:熊林弘高)。ティザービジュアルには、作家チャールズ役の田中圭を中心に、飛び交う家財道具と共に登場人物たちが渦巻くように描かれている。現妻ルース(門脇麦)が宙に浮き、黄金のドレスを纏った先妻の幽霊エルヴィラ(若村麻由美)がチャールズにまとわりつく。その周囲で霊媒のマダム・アーカティ(高畑淳子)やブラッドマン医師夫妻、メイドのエディスまでもが騒然と舞う様は、生者の世界に死者が乱入したときの喜劇的混沌を視覚化している。戦時下のイギリスで書かれたこのコメディは、2025年の日本で新たな解釈を与えられ、笑いの中に思索的な深みを漂わせていた。
爆撃の中で書かれた喜劇の表裏。いまここで、田中圭がこの作品に巡り逢った奇縁に不可思議を感じざるを得ない。チャールズの結末に、思わず身慄いした。欠片も嘘が無い、鮮明な感情の発露があった。これだから、彼の魅力から離れられないのだと思う。演劇とは、虚構だけれど真実なのだ。#陽気な幽霊 pic.twitter.com/A4Nsqu3K27
— ヤシオユアン (@YasioE) May 3, 2025
1941年・ロンドン:瓦礫の中の喜劇
まず、本作の誕生した背景を踏まえておきたい。劇作家ノエル・カワードは、1941年、ロンドン大空襲下のイギリスで本作を執筆した。ロンドンの街は爆撃により瓦礫の山と化し、人々は日々生死と向き合っていた。カワード自身も自宅を爆撃で失いホテル住まいを強いられるなど、戦禍を肌で感じていたという。もともと彼はイギリス情報部で諜報活動に携わることを望んだが、首相チャーチルから「君は劇場で人々を楽しませるべきだ」と諭され、戦時中は演劇で貢献する道を託された。その結果生まれたのが、空襲のただ中で上演される「死」を題材とした軽妙な喜劇『陽気な幽霊』である。
初演は1941年7月、ロンドンのピカデリー劇場で行われ、観客は、崩れた瓦礫に渡された板を踏み越えて劇場に入り、このブラックコメディを楽しんだと伝えられる。実際、本作は5年間で1997回というロングランを記録し、観客に笑いと安堵を提供し続けた。
劇中では、幽霊となった先妻が登場し、現妻との三角関係が引き起こす騒動が描かれるが、当時としては戦火の最中に死者を茶化す大胆さが際立っていた。「死」を遠ざけるのではなく、あえて冗談とし舞台に乗せることで、人々の不安を笑いに転化する——このカワードの芸術的姿勢は、爆撃下の観客にとって一種の心理的防壁であり、慰めでもあったに違いない。
ノエル・カワード自身についても触れておこう。彼は20世紀前半の英国演劇界を席巻した才人であり、作家・俳優・作曲家としてマルチな活躍を見せた。軽妙洒脱な作風で知られるが、その内面には幾度もの神経症的な危機や愛する者の死といった暗い影も宿していた。第一次大戦で恋人を亡くし、第二次大戦中も親友を喪うなど、生と死の狭間で神経をすり減らした経験が、本作にも投影されている。実際、カワードは本作について「戦争中に金銭目当てで書いた」としつつも、その背後には過去と現在の共存、不実という人間性、愛の名の下に要求される耐え難い責務といった大きなテーマが潜んでいると述べている。言い換えれば、『陽気な幽霊』は単なるファルス(茶番劇)である以上に、過去に取り憑かれた現在を如何に生きるかという命題を孕んだ作品なのである。
幽霊と「憑在論」:過去は舞台に現れる
カワードが『陽気な幽霊』で描いた「現在に現れる過去の幽霊」という主題は、のちにフランスの哲学者ジャック・デリダが提起した概念「憑在論(Hauntology)」にも通じる。憑在論とは「幽霊(亡霊)のような形で過去の社会的・文化的要素が回帰・持続すること」に関する思想であり、デリダは著書『マルクスの亡霊たち』(1993年)で現代社会に潜む幽霊的なものについて論じた。デリダによれば、幽霊とは時間のパラドックスそのものである。幽霊は「過去からやって来て現在に現れる」が、それは単に過去に属するとも言えず、さりとて現前する存在とも言い切れない。死者がこの世に戻るという発想自体が伝統的な時間概念を粉砕し、過去と現在、生と死、存在と不在の境界を曖昧にしてしまうのだ。
舞台芸術は、まさに幽霊的なメディアであるとも言える。上演の瞬間ごとに消え去っていく演劇は、生者の肉体(俳優)によって不在の人物(登場人物)を憑依させる行為とも言えるだろう。そして『陽気な幽霊』は、劇中に実際の「幽霊」という存在を導入することで、この舞台芸術の本質的な憑在性を可視化している。観客の目の前に、生身の俳優が演じる幽霊が現れ、過去(先妻エルヴィラ)と現在(現妻ルース)の共存が文字通り舞台上に展開されるのだ。このとき劇空間では、語りえなかったはずの過去の感情や記憶——例えばチャールズとエルヴィラの間に未練が残したもの、あるいは戦時下という状況下でタブー視されがちな「死者との対話」——が、笑いを媒介に解放されていく。
デリダの憑在論的視点で捉えるなら、エルヴィラの幽霊は過去からの訪問者であると同時に、登場人物たち(そして我々観客)が直面せざるを得ない心理的な「痕跡」を体現していると言えよう。哲学の文脈で本公演を眺めるとき、舞台上に幽霊が佇む光景は単なるホラー的趣向ではなく、「過去という亡霊が現在に取り憑いている様」を示す視覚的メタファーとして映る。観客は笑いながらも、その背後に横たわる歴史の影、記憶の亡霊に否応なく目を向けることになるのだ。
図式のずれがもたらす攪乱
『陽気な幽霊』の戯曲自体にも、幽霊による関係性の攪乱が巧みに織り込まれている。本作は上流階級の家庭を舞台にした会話劇、いわゆるウェルメイド・プレイの形式を備えつつ、不可視の存在による「図式のずれ」を笑いの源泉としている点で特徴的だ。物語序盤、降霊会で先妻エルヴィラの幽霊が呼び出されるも、その姿はチャールズにしか見えない。他の登場人物——現妻ルースや招待客たち——には幽霊の存在が認識できないため、以降の会話や行動は常に嚙み合わないずれを孕むことになる。例えばチャールズがエルヴィラと言葉を交わすとき、ルースから見れば彼は「誰もいない空間」に向かって独り言を言っているようにしか見えない。逆にエルヴィラには見えている(聞こえている)家具の位置や発言の真意が、ルースには捉えられず誤解を生む。一つの現実に二重のレイヤーが重ねられたような齟齬——まさに幽霊という特異な存在が日常に割り込んだがゆえの構造的ずれであり、観客はその滑稽さに笑わされるのである。
だがこの「ずれ」は単なるギャグの装置に留まらない。先妻エルヴィラの幽霊が出現した途端、チャールズとルースの夫婦関係は露わな緊張に晒される。それまで安定していた二人の会話に、実はエルヴィラという影が常につきまとっていたことが示唆されるのだ。
つまり幽霊が登場する前から、すでに現在の関係性には過去が潜在していたという構造がある。観客はエルヴィラの出現によって初めてそれを認識するが、実はその「見えない不在」はずっと舞台上に横たわっていたのだ。この図式の二重化によって、劇は進行とともに登場人物たちの関係を撹乱し再編成してゆく。エルヴィラはチャールズに昔日のロマンスを囁きかけて彼を過去へ引き戻そうとし、ルースは眼前に見えない宿敵と戦うかの如く神経を尖らせてゆく。そしてこの混乱はついに想定外の結末——ルースの死亡と幽霊化、つまり幽霊の二重化——に至る。先妻と後妻、両方の幽霊に挟まれたチャールズという構図は、愛と欲望の力学が過去と現在の両面から可視化された象徴的な状態であり、その果てに彼が何を選択するかが作品の底流にある主題を浮かび上がらせることになる。
熊林弘高の演出は、この構造的な「ずれ」そのものを緻密に現前化していた。幽霊が出現する際の照明の変化や間の取り方、俳優たちの視線の交錯によって、「いるはずのものが見えず、いないはずのものが見える」という逆転現象を観客に体感させる。特に門脇麦の演じるルースが、目の前に立つエルヴィラ(若村麻由美)を全く認識していない演技は、高度な技術を要するものだ。しかし、その「見えていない」所作があるからこそ、観客には逆にエルヴィラの存在が強く浮かび上がる。観客の笑いは、この演出的・構造的ずれの上に成り立ちながら、同時に現実の人間関係に潜む見えない亀裂までも意識させるのである。
俳優の身体が立ち上げる「憑在的気配」
本公演の白眉は、やはり実力派俳優たちの身体表現によって舞台上に醸成された「幽霊が憑いているような気配」そのものだろう。幽霊役の若村麻由美、生者側の門脇麦、そして霊媒役の高畑淳子という三者三様の主要女性キャストが、それぞれ異なるアプローチでこの気配を立ち上げていた点が印象深い。
エルヴィラ役の若村麻由美は、登場時から舞台にふわりと降臨するような佇まいで観客を惹きつけた。床を滑るような歩き方、現世の人物とは微妙に異なる間合いの取り方によって、彼女の身体そのものが「この世ならざる存在」を体現する。時に台詞を発せず舞台の隅に佇む沈黙の瞬間でさえ、その場にはエルヴィラの視線や息遣いが確かに存在していた。彼女の演技からはチャールズを誘惑し過去へ連れ去ろうとする妖しい力が発散されていた。声の抑揚ひとつ、指先の動きひとつに至るまで、幽玄な色気が宿り、観客には幽霊の存在が否応なく“見えて”くるのだ。
一方、門脇麦の演じるルースは、生身の人間としてのリアリティの中に、夫の過去への不安と嫉妬という幽霊的要素を滲ませていた。彼女は作中で終始エルヴィラの姿を見ることができないが、その見えないものに苛立ち翻弄される演技が見ものである。何もない空間に向かって語りかけるチャールズに戸惑い、声の調子を強張らせたり、部屋の気配に神経を尖らせたりする様子から、ルースという人物の内面——先妻へのコンプレックスや夫に対する不信の芽——が立ち現れてくる。普段は明るく理性的なルースの仮面の下に隠された脆さが、幽霊の介在によって露呈するさまを表現していた。彼女の身体は、見えざる幽霊の“影”に反応し、存在しないはずの存在に対峙する緊張感を観客と共有する。
高畑淳子演じるマダム・アーカティは、打って変わってコミカルなエネルギーで舞台を満たした。トランス状態に入ってテーブルを叩き念を送る仕草、大袈裟なまでの転倒や跳躍といった身体を張った演技で、観客の笑いを誘う。しかしながら、高畑の巧みなところは、その道化的振る舞いの中に「目に見えないものを信じる」人物の芯をしっかり通していた点だ。これが、霊媒師という役柄にリアリティと品格を与えている。高畑の存在感のおかげで、幽霊譚という荒唐無稽な物語に観客はかえって没入できる。不思議なものに本気で向き合う大人がいる——その説得力が舞台全体の「憑在的気配」を下支えしていたと言えよう。また、その笑いの背後に、一瞬鳥肌が立つような、未知への畏怖を漂わせるあたりも流石で、その身体を通じて「見えない何かがそこにある」空気が着実に築かれていった。
「嘘のない」静寂のクライマックス
そして終幕、本公演最大のクライマックスは、チャールズ役・田中圭の鬼気迫る独白劇によってもたらされた。物語も大詰め、二人の妻の幽霊に散々翻弄されたチャールズは、遂に屋敷を後にし新天地へ逃れようと決意する。通常この場面は、チャールズが家を出る際に「二人(幽霊)とも仲良くね」と捨て台詞を吐いて去り、残された幽霊たちがポルターガイストを起こして幕、という軽妙な締めくくりが定石である。しかし、熊林演出はここで大胆にも、約5分間に及ぶ静寂のシークエンスを挿入した。舞台上にひとり残ったチャールズ(田中圭)が、肉眼では何もない空間に向かい、まるで二人の幽霊がそこにいるかのように語りかけ始めたのである。
その間、客席は水を打ったように静まり返った。田中圭は一言一言を搾り出すようにゆっくりと言葉を紡ぎ、時に長い沈黙を挟みながら、見えないルースとエルヴィラに語り続ける。その声色からは、これまで見せなかった愛惜と悔恨が滲み出し、次第に彼の目には涙が浮かんでいるのが分かる。観客には幽霊の返答は聞こえない。だが、田中圭の演技からはあたかも彼が二人の声を聞き、対話しているかのような感覚が伝わってくる。彼は深く項垂れながら、かつての妻たちとの思い出に別れを告げ、そして感謝を告白したように見えた。
この静謐な独白シーンは、本作全体のテーマを凝縮する魂の露出であったと言える。田中圭による、嘘のない感情の発露は、観客の心を強く揺さぶった。生者と死者、現在と過去の間に引き裂かれ、自身もどこにも安住できなかったチャールズという人物が、ここにきて初めて真実の感情を曝け出す。それは同時に、彼が二人の幽霊を愛し、喪失に深く傷ついていたことの顕れでもあったように思える。彼ひとり残された舞台には何も起こらない。ただ虚空に、二人の妻の気配が漂っているかのように感じられるのみだ。
このラストシーンの改変によって、本公演は単なるコメディの域を超えて一種のレクイエムの趣すら帯びた。観客はチャールズの声に耳を澄ませる中で、笑いの果てに残るものは何かと問いかけられる。
カワードが瓦礫のロンドンで描いた『陽気な幽霊』は、戦時下の死者を笑い飛ばすことで生を肯定する物語だった。しかし、熊林弘高の演出は、その笑いの只中に死者と共に生きることの哀しみと希望を照らし出す。舞台に見えざる幽霊たちが佇み、それに語りかける俳優の姿——それは現代の我々に向けて、過去という幽霊とどう向き合うべきかを静かに問いかけているようでもあった。幽霊たちは舞台から姿を消したのだろうか?それとも我々観客とともに劇場を後にしたのだろうか?その答えは、私たちひとりひとりの心の中にある。
参考文献:
The Guardian「Noël Coward wanted to be a spy… he should stick to theatre」(2014) (Noël Coward’s blitz spirit | Culture | The Guardian)
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