下弦の月が、世界の夜明けを照し出す【おっさんずラブ】

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この記事には、『劇場版おっさんずラブ ~LOVE or DEAD~』の内容に関する情報が含まれています。

夢を視る

2019年8月23日。『劇場版おっさんずラブ ~LOVE or DEAD~』の公開初日。

私は映画館の闇の中で、あるを視ていた。

114分の上映時間が終了し、周囲の空間が明るくなると、観客から自然と拍手が巻き起こった。私は、深海のような感情に揺蕩いながら、もう何も映ることのない白いスクリーンを、しばらく見詰めていた。

帰り道のタクシーの中で、映画を一緒に観た友人と、お互いの感想を語り合った。

興奮が冷めやらない中、私たちが同意したのは、田中圭が、圧倒的な現実感で、春田創一という人物を生き抜いたということだった。

タクシーを途中で降りて、独り自宅へと向かう道すがら、私は藍色の空を見上げた。

その雲の向こうには、下弦の月が浮かんでいる。私の心を、その仄かな光が静かに照していた。

沈黙する繭

翌日、私はSNSやレビューサイトに目を通しながら、人々がこの作品をどう受容したのかを知る。

ラブコメディとして愉しんだ人。登場人物たちの苦悩に心を震わせた人。身近な人に改めて想いを馳せた人。インターネット上には、さまざまな感想が、どれも丁寧な文章で綴られていた。

ただ、連続ドラマ版を熱心に応援してきたファンの一部からは、劇場版を真正面から受け止めきれないという声も聴こえてきた。

LGBT当事者の間でも、賛否が分かれていることを知った。中には、非常に鋭い批判を向ける人も存在した。

私は、劇場版を観た直後に、感想をブログに掲載しようと考えていた。しかし、キーボードを打つ指が、私の感情を言葉として紡ぎ出すことはなかった。

日を跨いだ後も、私は自らの気持ちを確かめるように、繰り返し映画館に足を運んだ。物語の余白を埋めるように、ツイッターで数多くの考察を読み耽り、私なりの考察を綴ろうとも試した。

でも、結局それは上手く行かなかった。何処から糸を解けば良いか判らないのように、この作品は、私の前でただ沈黙していた。

花火と心象

それから数日経ち、或る朝、電車に揺られていると、花火の光景がふと脳裏を過った。春田創一が、劇中で見上げた花火。その美しさは、一瞬の内に彼の心から消え去る。

ああ、そういうことだったのか。と、私は思った。

この作品には、映画的な瑕疵が、確かに多く含まれるのだろう。心理描写の不足。仕事に対する現実感の欠落。爆破場面の矛盾。それらの傷を指摘することは、容易い。

だが、それにも拘らず、この物語は、私の心の奥底に、確実に根を下ろし、絶えず感情を吸い上げてゆく。

私に視えた美しさを、記録に残そう。そう思った。

それが、誰かに共感されることはないかもしれない。でも、私の心象に映し出された風景は、誰にも否定し得ないだろう。

これは作品に対する評価でも、考察でもない。現実世界に生きる一人の当事者が抱いた、感想である。

永遠の愛

映画は、春田の赴任先である香港の街で幕を開ける。

物語冒頭、春田は、怪しげな雰囲気の店で、ダイヤの指輪を購入する。

その直後のハプニングで、この指輪を失いそうになった春田。アクション映画のような場面が矢継ぎ早に繰り出されるこの映像は、純粋な娯楽としても楽しめるだろう。

だが、この指輪には、消し去ることのできない、昏い影が付き纏う。牧への「永遠の愛」を願いながら手に入れたダイヤは、果たして本物なのか?

映画の演出では、やや判り難くなっているが、シナリオブックには、春田が、指輪を玩具ではないかと疑う台詞が含まれている。

劇場版おっさんずラブ〜LOVE or DEAD〜シナリオブック[本/雑誌] (単行本・ムック) / 徳尾浩司/脚本

この指輪には、真正さを保証する鑑定書も、恐らく存在しないだろう。

けれど、春田は、それが本物であると真っ直ぐに信じ、香港の街を全力で走り抜ける。

このダイヤが放つ光は、春田と牧の関係性をどのように照し出すのだろうか。

無意識の変化

春田は現地で行われた送別会の後、自宅のベッドで目覚める。気づくと、その隣には見知らぬ男性が横たわっている。

連続ドラマ版では、後輩のマロに体を触れられることにすら、嫌悪感を隠さなかった春田。その彼が、同性と同じベッドで、裸で眠りに就いていた。

春田の部屋には、ソファーも置かれている。以前の春田であれば、同性の人間を自室に招き入れることはあっても、別々の場所で寝ることを選んだだろう。

しかし、春田は酒に酔った状態で、ほぼ無意識であったにも拘らず、このような行為に及んだ。

その直後、牧凌太が予告無く春田の自宅を訪れるが、この対面時でも、春田は躊躇うことなく、牧に抱き付いている。

連続ドラマ版も劇場版も、春田と牧の身体的な繋がりが直接描かれることはない。けれど、この一場面が、春田の変化を何よりも雄弁に語り尽しているように思う。

心の余白

帰国後、牧との同棲を再開した春田。

だが、牧は本社に異動し、大型プロジェクトチーム「Genius 7」に配属されていた。お互いの意識が擦れ違う中、春田は自分なりのやり方で「結婚」後の生活を想い描くが、その像が牧の心に届くことはない。

春田家に突如舞い戻った春田の母・幸枝さんの前で、春田は立ち話のまま、牧との関係を告白しようとする。

けれど、牧には、その行動が、余りにも不用意なものに映ってしまう。

以前にも春田は営業所で、不意に全員の前でカミングアウトをしたことがある。

今回のそれも、春田の純粋さ故の行動で、牧は内心ではそれを理解している。しかし、牧はここで、問題から反射的に目を背けてしまう。

牧は、この一年の中で、密かに、この宙吊りの状態に慣れてしまったのかもしれない。

ふと訪れる寂しさは、親友となった、ちずとの会話の中で霧消してゆく。

その足場が、少しずつ確かなものになった頃に、自身の異動と春田の帰国が重なり、心の余白が塗り潰されてしまった。

家族の外側

本社での激務が続く中、牧はとうとう、過労で倒れてしまう。

牧は入院を余儀なくされるが、春田にはその事実を伝えない。

私は、病床で目覚める牧の姿を空想する。その脇には、両親が心配そうな顔で座っている。そこに春田の姿はない。

自分にとっての「家族」とは誰なのか。

個人的な経験だが、私も過去に、会社で意識を失い、病院に運ばれたことがある。

気付いたら、私の横には、彼が居た。私たちの関係を知っていた同僚が、密かに彼に連絡してくれていた。

けれど、私は最後まで、彼を「家族」と呼ぶことはできなかった。

映画の中では描かれていないが、元々の脚本では、春田が牧家の玄関で、牧の父・芳郎さんと挨拶を交わす場面が存在する。

一見、何気なく思えるこの会話が、あのラストシーンに繋がっている。

一瞬の閃光

春田と牧が、一年前に約束を交わした花火大会。牧は、春田が贈った浴衣を着ている。

人混みの中で、春田は、自ら牧の手を握る。

以前は、人前でお互いの手が触れ合うことすら忌避していた春田。だが、彼はもう、他者の視線を恐れてはいない。

この夜、ふとした切欠で、二人の間に生じていた微かな罅割れが、決定的なへと広がってしまう。

「一生、一人で抱えてろよ」という春田の言葉は、牧の心を深く抉る。

その後、春田の前に現れた山田正義(ジャスティス)。春田が投げた指輪を探して、水の中へと身を浸す。

止めようとする春田を突き飛ばすジャスティス。二人の視線が対位する。

夜空に打ち上げられては消えてゆく、花火の儚さ。その一瞬の閃光が、「優しい世界」の影を映し出す。

メメント・モリ

「東京ベイ・ラピュータ計画」の裏側で、秘密裡にドラッグビジネスに手を染めていた鳳凰山グループ

その本社に単独で乗り込んだ春田は、呆気なく敵の手中に落ちる。

監禁場所に置かれた時限爆弾は、容赦なく春田を死に直面させる。薫子との会話を通じて、自身の過ちを認める春田。

その後、春田は、現場に駆け付けた牧と脱出を図るが、無残にも炎に囲まれ、絶望に陥る。その場に座り込む二人。

この場面で、春田が語り出した言葉に、私は最初、自分の耳を疑った。

劇場版の公開前に発表されたキャラクタービジュアルで、春田は「どうして”好き”だけじゃ、ダメなんだろう。」という台詞を発していた。

当時の私は、婚姻平等を求める友人の口から、全く同じ言葉が出たことを思い出していた。

けれど、まさか、映画の中で、春田がこの問題に触れるとは思っていなかった。

春田は子供についても語った。

牧は営業所時代、街中で子供と触れ合う春田の姿を傍で見ていたはずだ。6話で、幸枝さんからの話をされた時に、牧は春田の可能性を消去することの重さに圧し潰された。

しかし、春田は、牧が別離を決断した理由を、悟った。

牧は、春田がその事実に気づくことに、常に怯えていたのかもしれない。それでも、全てを識った春田は、死を覚悟しながら、牧に自身の想いを告げる。

炎に包まれた建物の中で、その告白の真正さを、認める者は誰もいない。

花火と爆破という、二つの爆発(explosion)の場面を通じて描かれるのは、「メメント・モリ(memento mori)=死を想え」という影の主題ではないだろうか。

この言葉の意味は両義的だ。死を前にして、生の無常さを認めるのか。それとも、生の悦びを追い求めるのか。

蘇る記憶

武蔵は、政宗に差し出された靴に足を入れた瞬間、「シンデレラ」の場面が蘇り、春田との過去の記憶を取り戻した。

「なんてこった!」と叫ぶ武蔵は、春田と牧を置き去りにしてしまったことを激しく悔やむ。

だが、春田と牧は生還した。死を想う限界の中で、二人は未来を諦めることはなかった。

幸福な結婚

正直に言うと、劇場版は、春田と牧の結婚式の場面で、幕を閉じるのだろうと想像していた。

結婚式場が撮影場所に使用されているという情報は、事前に流れていたし、それは予定調和なのだろうと、勝手に考えていた。

だが、実際はそうではなかった。

映画のエンドロールでは、ジャスティスと薫子の幸福な結婚が描写される。この二人は、親族や友人に祝福され、満面の笑みを見せる。

ジャスティスは冗談交じりで「会長の座も狙います」と春田に耳打ちする。

この場面は、一見して中立的な社会が、異性愛的な規範により構造化されている現実を、私たちに提示する。

薫子が投げたブーケを受け取る武蔵。これは「常識」的には誤配と言えるのかもしれない。

けれど、登場人物のそれぞれの人生が、彼/彼女らの「常識」を少しずつ、確実に、組み替えてゆくだろう。

二人の出発

結婚式の場面が終わると、春田と牧のその後が描かれる。

初めてお互いを下の名前を呼び合った後、牧はシンガポールへ旅立ち、春田は日本に留まる。二人はそれぞれ異なる環境の中で、自身のを追い求めてゆく。

シナリオブックに収められた座談会で、瑠東東一郎監督は、脚本のこの場面に「儚さ」を感じ取ったことを語っている。

瑠東監督は、2016年の単発版から、『おっさんずラブ』の製作に関与している。

連続ドラマ版の演出は、Yuki Saito氏、山本大輔氏を含めた3名体制だったが、私の印象では、瑠東監督は、当事者の感性から最も遠い位置に立っていたように思う。

だからこそ、彼はこの世界を、俯瞰的な立場から眺めることができた。

最後の場面は、エンドロールの先に存在する。これは、物語の内部でもあり、外部でもある。

ジャスティスと薫子は、王子様が囚われの姫を助け出して結ばれるという、典型的な「Happily ever after」の物語に支えられていた。

だが、春田と牧の関係性を支える模範解答は、まだ誰も持ち合わせていない。

春田と牧が、将来をどのように生きるかは、本人達にしか決められない。瑠東監督は、その事実を冷静に認識していただろう。

だからこそ、二人を既存の規範に収めようとはしなかった。

現実世界の当事者は、世間から過剰な理想を押し付けられることもある。同性同士が挙式すれば、皆、二人が永遠にその関係を守り続けるのだと、無意識に信じて疑わない。

だが、当事者は非当事者と何も変わらない、生身の人間でしかない。過ちを犯すこともあれば、別れを選ぶこともある。でも、逆に、経験を一つずつ積み重ねて、確かな関係性を築き上げてゆくこともできる。

春田と牧は、今回の出来事を通じて、それを知ることができた。ゆえに、別れ際に振り返ることなく、お互いの道を歩むことができたのではないだろうか。

指輪の交換

最後の場面では、二人の左手の薬指に、指輪が嵌められている。

物語の中で、二人が指輪を交換する場面は存在しない。その理由は、観客の想像に委ねられている。

悲観的に聞こえるかもしれないが、私は、春田が幸枝さんに対して、まだ牧との関係を明かしていないのではないかと思う。指輪の交換は、お互いの「家」の交わりも意味するためだ。

映画が公開される前、私が最も期待していたのは、牧が幸枝さんに受け容れられることだった。

しかし、春田はすでに、目の前に横たわる現実を認識している。牧と人生を共にすることが、何を意味するのか。

春田の心に、もう焦りはないのだろう。春田は、いつか人々の考えが変わるのを待ち続けているのかもしれない。

「優しい世界」の裏側

前回の記事(OPEN THE DOOR/牧凌太が、次の扉を開ける時【おっさんずラブ】)の中で、私は「牧凌太が、次の扉を開ける時、果たしてどのような世界が、彼の瞳に映るのだろうか。」という問いを発した。

牧の赴任先であるシンガポールは、刑法377A条により、男性間の性的関係が現在も違法とされる国である。彼は新しい環境の中でも、自らの内面と絶えず向き合い続けることになるだろう。

連続ドラマ版は、登場人物の誰にも悪意がない「優しい世界」を描き出していた。時に「ファンタジー」だと形容されることがあっても、決して私たちに、その世界の裏側を曝け出さなかった。

だが、劇場版で、春田創一は、その「優しい世界」が排除するものに気づいてしまった。

『おっさんずラブ』は、「普遍的な人間愛」を描いていると評されることがある。もちろん、春田と牧が抱える葛藤を、異性間の問題へと移し替えて想像することは可能だろう。

けれど、実際には、その普遍は、ある特殊を周縁化することで成立する。もし、春田と牧が男性同士でなかったとしたら、物語はこのような結末を迎えていただろうか。

情熱と受苦

『with』のインタビューで田中圭が語る通り、春田は自分自身を「ゲイ」だとは認識していない。

当事者の一部は、この事実に対して抵抗感を抱いた。この手法は、ストレート・ウォッシングだと解釈される可能性もある。

しかし、物語の中で、春田は、牧との間に横たわる境界線を自ら越えてゆく。その情熱=受苦(passion)を通じて、私は春田創一の心情へと同一化した。

アイデンティティは、決して不変の概念ではない。春田は、自己の外延が揺らぐことを恐れなかった。

炎の告白の場面で、田中圭が私たちに見せた感情は、絶対に嘘ではなかった。そして、田中圭からその真実の感情を抽き出すことができたのは、間違いなく、林遣都しかいない。

私は、この二人に、深く感謝している。

下弦の月

下弦の月は、明け方の空にも残り続ける。満ちた月が欠けてゆく姿は、私たちの心に何処か寂しさを感じさせる。

だが、その光が消えることは、必ずしも昏い意味を持つのではない。私たちは、また新しい時が巡るのを知る。

春田と牧の物語である『おっさんずラブ』は、劇場版で完結した。

この続きを視ることができるかどうかは、現実世界に存在する、私たち一人一人の想像力/創造力に委ねられている。私は、そう信じている。







4 件のコメント

  • ありがとうございます。モヤモヤしていた部分がすっきりしました。
    余りにも荒唐無稽だったけど、ただ『期待外れ』とは言いたくない、何日経ってもふと心を揺さぶられる、フィクションの中で真実を吐露している役者の凄み、みたいなものが有ったと思うのです。
    絶対的に分かりやすいハッピーエンドを求められている映画で、筋書きはほぼファンタジーなのに、春田と牧の関係を分かり易く結婚で終わらせなかったところが、却って制作側は二人の愛を信じているんだと思えます。(自分は異性カップルで、心情的な信念からの事実婚ですので尚更)
    色々否定的な感想が予想されて、映画版に関しては全くSNSから遠ざかっていたので、深い考察を読ませて頂いて嬉しいです。
    長々と失礼しました。

  • >rikimaru81さん
    コメントありがとうございます。私も同感です。おそらくこの作品には映画的な瑕疵が含まれていますし、当事者の観点から問題となりそうな描写も幾つかあるのは事実です。ただ、この作品を通じて、制作陣、俳優が伝えたかったことを受け止めようと思いました。連続ドラマ版は、あえて現実の影となる部分に焦点を当てず、「優しい世界」を描き出していましたが、「結婚」へと発展する段階で、このような物語に変化したのは、非常にリアルであると感じました。春田と牧の結婚式の場面がないことについても、賛否が分かれていますが、個人的には、誠実な判断であると思います。フィクションとして、同性婚が容認された「並行世界」を創ることもできたはずですが、敢えて現実の問題から目を背けなかったこと。この点は評価したいです。劇場版は、連続ドラマ版と異なり、恐らく観る者に「傷=創」をもたらすでしょう。ただ、その傷=創を回復させようとする心の動きが、現実世界での変化に繋がればと願っています。

  • ありがとうございます。映画を見て楽しかった反面、何か引っ掛かるものがありました。映画レビューやsnsを見てもずっとモヤモヤしてました。やっと気持ちが軽くなりました。

  • 炎の中の田中圭さんの告白に嘘はなかった、私も、そう感じました。そして、牧がしたように、子どものように泣く春田がいとおしくてたまらず、優しく抱きしめたくなりました。4回目の鑑賞でした。最後のキスシーン、こんな美しいキスシーンは見たことがないと感じました。4回目で。初回は「もっと激しいキスがリアルじゃない?」と思ったにもかかわらずです。五回目観に行くことはないと思います。私のなかで春田と牧の物語はしっかり完結しました。とても幸せな気持ちでした。

    瑠東監督のこと、全然わかっていませんでした。目からうろこの話、とても得心しました。

    ありがとうございます。

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