静寂の断頭台
薄暗い舞台上に、一基のギロチンが静かにそびえ立っている。刃はまだ落ちることなく、得体の知れない沈黙だけがそこにある。その静寂は嵐の前の静けさであり、物語全体に垂直に差し込む一本の鋭い問いのようでもある。
18世紀フランス革命――激情渦巻く歴史のただ中で、人々の運命を無差別に断ち切ったこの処刑台は、同時に舞台『二都物語』の象徴的装置だ。静寂の断頭台、だが、それは単なる恐怖の機械ではなく、対立するもの同士が最後に出会う「場」であり、対位法的な調べが終局へと解決する休止符でもある。暗闇の中に浮かぶそれは、これから語られるであろう魂の交差を、無言のうちに予感させている。
選ばれた男と選ばれなかった男
ひとりは酒瓶を手放せない弁護士、シドニー・カートン(井上芳雄)。もうひとりは高潔な亡命貴族、チャールズ・ダーニー(浦井健治)。物語は、この対照的な二人の男の肖像を軸に展開していく。ルーシー(潤花)という女性を愛し、その愛を勝ち得た「選ばれた男」ダーニーと、愛するがゆえ身を引き「選ばれなかった男」カートン。
この二人は、舞台上で鮮やかな鏡像を成している。井上芳雄のカートンは斜に構えた皮肉屋である。酔眼の奥に鋭い知性と孤独を潜ませ、捨て鉢な振る舞いの端々に壊れやすい優しさが浮かぶ。一方、浦井健治のダーニーは誇り高く誠実だ。貴族の出自を捨ててもなお滲む気品と正義感を体現し、苦難の中でも愛と信念を貫こうとする。井上の芳醇な歌声がカートンの運命に震えを与えれば、浦井の清冽な歌声はダーニーの信条に光を当てる。
舞台経験を積んだ二人の俳優は、この作品に時の重みを刻み込んでいる。実際、本作は2013年の帝国劇場での初演から12年ぶりの再演であり、当時と同じ二人が同じ役を演じることになった。当時、まだ30代だった彼らが、今やトップクラスの役者となり、その演技にも人生の厚みが加わった。井上のカートンにはかつて以上に陰影が差し込み、皮肉と真情の落差が大きく胸を打つ。浦井のダーニーもまた、若々しい情熱に加えて包容力を感じさせ、逆境に晒される場面でも揺るぎない芯を見せる。
ルーシーを巡る三角関係の緊張感など、二人の同時登場シーンでは演技の呼吸がぴたりと合っている。井上の放つ皮肉交じりの台詞に浦井がまっすぐな眼差しで応じるとき、そこには単なるキャラクターのやり取り以上の化学反応が起きている。それは実在の俳優同士の信頼が舞台上で可視化された瞬間であり、観客はその緊張と緩和の妙に惹き込まれる。舞台上で対峙する二人には、そうした「相思相愛」とも言える信頼感が漂っている。
裁判の場面でカートンとダーニーが顔を見交わす瞬間、互いに異なる人生を歩む役者同士の姿が奇妙に重なり合う。そこには運命の歯車が噛み合う音が聞こえるようだ。選ばれた者と選ばれなかった者――二人の男は表裏一体の存在として対をなし、自身の本質を浮き彫りにすることで物語に深みを与えている。その構造は、やがて物語のクライマックスで大きな意味をもって収斂していく。
恨みと赦しの縫い目──マダム・ドファルジュとお針子クローダン
暗い過去の「恨み」に囚われた女と、静かなる「赦し」を体現する娘。この舞台には二人の対照的な女性像が織り込まれている。
ひとりはマダム・ドファルジュ(未来優希)――革命派の闘士であり、憎悪を糧に復讐の炎を燃やし続ける人物だ。もうひとりは、若きお針子クローダン(北川理恵)――物語の終盤に現れる若き娘で、過酷な運命にもかかわらず柔らかな光を湛えている存在である。
マダム・ドファルジュは常に編み物を手にし、糸で歴史の怨念を編み込むように貴族への恨みを刻みつけている。その編み目には、復讐すべき相手の名が密かに織り込まれており、彼女にとって「忘れないこと」こそが正義であり復讐だ。未来優希の演技は冷徹と激情の二重奏である。宝塚歌劇団で男役スターとして活躍した経歴を持つ彼女は、舞台での存在感が際立っている。
その瞳には消えぬ憎悪の炎を宿し、怨嗟に衝き動かされる人間の狂気をリアルに表現している。声の張りと低音の効いた歌唱には凄みがあり、群衆を扇動する場面では革命そのものの化身のように劇空間を掌握した。マダム・ドファルジュはある意味でフランス革命の影の主役であり、「記憶」に縛られた過去そのものを象徴している。未来優希はその過去の亡霊に血を通わせ、圧倒的な迫力で観客の心に刻みつける。その姿は、人が歴史の傷を前にしたとき、どこまで残酷になり得るかを問いかけてくるようだ。
未来優希は宝塚歌劇団時代、『エリザベート』の新人公演でゾフィーを演じ、大きな話題を浚った経験がある。また、退団後も、同作品のマダム・ヴォルフや、『モーツァルト!』のセシリアなど、女性の「陰」の部分を映し出すような役を務めてきた。マダム・ドファルジュにおける表現には、それらの経験が凝縮されたような印象がある。役と魂が渾然一体となった演技に、思わず釘付けになった。
一方、物語の最後に登場するお針子クローダンは、マダム・ドファルジュとは対照的に赦しの象徴である。彼女は物語のヒロインでもなければ、高貴な血筋の役柄でもない。ただ革命の混乱の中で巻き添えとなり、断頭台へと連行される弱き市井の一人だ。その無垢な魂と震える声は、血塗られた革命の物語に一条の光を差し込む。クローダンは、短い出番ながら、カートンと作品全体の救済を担う重要な役割を果たす。
死を目前にした恐怖に体を強張らせるクローダンに、カートンは静かに語りかける。「安らかな世界が待っている」――その言葉に、彼女は次第に怯えを鎮め、穏やかな微笑さえ浮かべる。そして彼女は自らの命を差し出してくれたカートンに感謝し、崇高な敬意の眼差しを向けるのである。処刑を前にして、手と手を握り合う二人の姿は、凄惨な断頭台の光景に信じ難いほどの静謐さを与えている。
北川理恵は透明感のある声と表情で、この役に確かな存在感を与えた。暗い怯えから静かな受容へと至る心の変化を繊細に表現し、その歌声には儚さの中にも芯の強さが感じられる。観客は、彼女の姿に限りない哀惜と救いを見出すだろう。彼女は自分を裏切った社会や運命すらも恨まない。代わりに、自分と同じ運命を受け容れてくれたカートンと最後の瞬間を静かに分かち合う。そこには憎しみの連鎖を断ち切る赦しの力が感じられる。
興味深いエピソードとして、北川理恵自身、12年前の初演を観客として体験し「虜になり、パンフレットを隅から隅まで読んだ」ほど心を動かされたという(本人のインスタグラムより)。彼女は観る者から演じる者へと立場を変え、自身の記憶に残った作品世界へ飛び込んだのだ。それはまるで、本作の主題が舞台の外側で一本の見えない糸となり、時を経て彼女をこの役へと導いたかのようである。北川理恵は、『プリキュア』シリーズの主題歌(ボーカル)で知られるが、ミュージカルでも多種多様な作品に関わってきた。個人的には、『屋根の上のヴァイオリン弾き』におけるツァイテル婆さんの印象が強い。乙女から老女まで幅広く演じられる奥行の深さが彼女の強みである。
マダム・ドファルジュの「編まれた恨み」と、お針子クローダンの「解ける赦し」。相反する二つの感情が、舞台の上で擦れ違うとき、物語は単なる悲劇以上の深みを帯びる。この二つの対照的な役柄は、人間の持つ可能性の振り幅を両極から支えている。それはちょうど、一枚の布を裏表から刺繍するように、世界に複雑な縫い目を刻んでいるのである。
運命の交差点としての断頭台
最後に舞台が暗転するとき、観客の胸には様々な思いが去来するだろう。断頭台という冷厳な装置は、この物語の終盤でまさしく運命の交差点と化す。愛と憎しみ、自己犠牲と復讐、恨みと赦し、生と死…。相反するものたちが一点に集まり、刃の下で交わるその場所で、果たして何が立ち現れるのか。
カートンというひとりの男の犠牲によって、憎悪に彩られた歴史は一瞬、人間の愛によって上書きされる。ギロチンの静寂の中で交差する二つの魂――それは「選ばれなかった男」と「名もなき娘」の出会いであり、同時に「過去の復讐」と「未来の希望」の交錯でもある。
カートンとクローダンが見つめ合う瞬間、芽生えるのは絶望ではなく限りない救済の光であった。観客はその光を目撃し、やっと安らかな息をつくことができる。しかし同時に思い知るのだ。マダム・ドファルジュが象徴するような深い怨念の淵から、どうすれば人は解放され得るのかと。
断頭台は物語の終点ではなく問いの出発点である。私たちはこの物語から何を汲み取り、どのような答えを見出すだろうか。
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