朝ドラ『おむすび』を“結び直す”〜圏論のレンズを通じて

omusubi

はじめに

NHK連続テレビ小説『おむすび』(2024年後期)は、「ギャル」と「栄養士」という一見かけ離れた二つの世界を一人のヒロインで描いた、朝ドラ史上異色の作品だった。

主演・米田結(橋本環奈)がギャル文化の中で青春を送り、やがて医療の現場で管理栄養士として働く──そんな大胆な展開に、多くの視聴者が驚きと戸惑いを覚えたのは事実である。

「なぜギャルが栄養士に?」という、唐突とも言える物語の流れに、違和感を感じた方も多かったのではないだろうか​。

本記事の主題は、この「意味の断絶」について考えることである。

その補助線として、数学の理論である「圏論」の力を借りてみることにする。

非常に難解そうに聞こえる圏論の視点を借りて、『おむすび』の構造を眺め直してみると、なぜ物語がバラバラに感じられたのか、その原因が浮かび上がる。

でも、数学なんてわからなくても全然大丈夫。本記事は、圏論の基本概念を物語になぞらえて解説しながら、一見バラバラに見えた物語のピースをもう一度“結び直す”試みである。

「ギャル圏」「栄養士圏」「育児圏」――劇中で並列するこれらの世界をつなぐものは何だったのか?妹・結と姉・歩の関係性は、抽象的な数学概念でどう捉えられるのか?そして阪神・淡路大震災と東日本大震災という二つの震災が、それぞれの姉妹に非対称な意味の矢を放つとはどういうことか?

物語に感じたモヤモヤを、圏論的な図式で可視化しつつ、最後には本作がもたらした、別のかたちの希望について考えてみよう。

圏論で物語を読む?基本アイデアをやさしく解説

まずは圏論の基本用語を、簡単に紹介しておく。ただ、難しい数式などは出てこない。「うわ、面倒」と感じたら、この部分は読み飛ばしても全く問題ない。

圏(Category): 圏とは、一つの世界や領域だと思ってほしい。その中にはいろいろな対象(object)がある。たとえば『おむすび』では、「ギャルの世界」と「栄養士の世界」が別々の圏として存在していた。それぞれの圏の中で、登場人物や出来事が対象として存在する。

射(Morphism): 二つの対象を結ぶ矢印のこと。一方の対象から他方への意味の流れや因果関係を示す​。物語では「出来事Aが原因で、主人公が状態Bになる」といった因果のつながりなどが射に当たる。

関手(Functor): 関手(かんしゅ)は、簡単に言えば圏と圏を結ぶ架け橋​。ある圏の対象や射を、別の圏の対応するものに写しとる翻訳者のような役割を果たす。物語で言えば、「ギャルの世界」での経験や価値観を「栄養士の世界」に上手につなげる、ストーリー上の工夫が関手に相当する。関手がしっかり機能すれば、本来は別世界の出来事も違和感なくつながる。

可換図式(Commutative Diagram): ちょっと耳慣れない言葉だが、要はいろいろな経路で辿っても辻褄が合う関係図のこと。図式が「可換」というのは、「AからBに直接行く道」と「Aから別の経由地Cを通ってBに行く道」の結果が同じになる状態を指す。もし経路によって意味が食い違うなら、その図式は非可換、つまり矛盾が生じていることになる。

以上の圏論的キーワードを踏まえつつ、『おむすび』の物語をひも解いていきたい。

(なお、本記事では構造的な直観に着目するため、数学的な厳密性に関しては不足していることをあらかじめお詫びする)

1.ギャル圏と栄養士圏 ― 異なる世界をつなぐものは何だった?

まず注目したいのは、『おむすび』が内包する二つの異なる価値体系である。

一つは主人公・結が青春時代を過ごした「ギャル圏」、もう一つは大人になって進んだ「栄養士圏」。作中ではこの両者が同一人物の人生に同居していた。

ギャルと栄養士、普通なら交わらなさそうな世界が一人の女性の中で展開するのは、新鮮で意欲的な試みだった​。

ギャル圏とはどんな世界だろうか?作中、結の高校時代が象徴するように、ギャル文化の世界では、自己表現、友情、反発心といった感情的・身体的価値観が重視される。派手なメイクやファッション、仲間との絆(たとえばパラパラを踊ったりネイルを見せ合ったり)など、個人の欲望や情動を肯定する文化領域がギャル圏である​。

一方の栄養士圏はどうだろう?白衣と調理帽に象徴される病院や職場の世界では、衛生管理や栄養バランス、他者への配慮といった規範的・実践的価値観が支配する​。感情よりも専門知識や論理が重んじられる、いわばお堅いプロフェッショナルの領域と言える。

本来、この二つの圏は、結という一人の主人公を介して地続きに描かれるはずだった。しかし多くの視聴者が感じたように、ギャル圏と栄養士圏の間の、意味的な接続が希薄で、物語上はまるで別個の世界がポンポンと並べられているように映った。

圏論の言葉で言えば、本来必要だったギャル圏から栄養士圏への関手──すなわち一貫した語りのブリッジが十分に描かれなかったのである​。

後の夫となる翔也を支えるという目的はあったものの、高校時代に培った自己表現のエネルギーや仲間との絆が、どうやって彼女の職業倫理や将来の志へと変換されたのか?この変換のプロセスが具体的に示されなかったために、視聴者は「あれ、どうして急に栄養士に?」と戸惑ってしまった。

ギャル圏と栄養士圏という二つの圏は、同じ物語世界に存在しながら、互いに関手で結ばれていない状態だった​。

これではどんなにテーマが斬新でも、物語としての連続性が感じられなくなってしまう。実際、『おむすび』を見た多くの人が「個別のエピソードは面白いものもあるのに、全体の流れがバラバラで入り込めない」といった感想を抱えたようだ​。

この問題については、後ほど、また詳しく振り返りたい。しかしその前に、物語を動かすもう一つの圏と、そこで活躍するある人物に注目しなければならない。そう、本作にはもう一つ、「育児圏」とも言うべき領域が隠れており、さらに姉妹の対比という重要な構造があった。

2.姉妹の構造分析 ― 「駆動者」な歩と「観測者」な結

『おむすび』には、主人公・米田結と、その姉である米田歩が登場する。実はこの二人、物語の意味構造において対照的な役割を担っていた​。

圏論のレンズを通して見ると、妹の結と姉の歩はまったく異なる振る舞いをする存在(対象)なのである。

まず姉の歩について。歩は物語冒頭から伝説的な「博多ギャル連合(ハギャレン)」の創設者として登場し、地元のギャル文化を牽引するカリスマ的存在だった​。彼女の生き方には、親友の死という喪失体験が根本にあり、それが激しい衝動となって表れていいる。

自ら傷つきながらも周囲を巻き込み、常に新しい動きを起こしていく。そんな歩は、周囲の価値観を揺さぶり、人間関係を変化させる「駆動者」として物語世界に作用していた​。

簡単に言えば、「姉が何か行動を起こす → 周りが影響を受けて変わる」という因果の矢が常に発生していたのである。

一方、妹の結はどうだったか。彼女は姉や周囲の影響を観測しながら、徐々に変化していく存在として描かれている​。確かに結も物語の中で何度か大きな転機を迎えるが、それらは基本的には、外から与えられた刺激を受けての変化だった​。

たとえば高校時代、当初は姉の派手な生き方に批判的だった結が、やがて「ギャルも悪くないかも」と心境を軟化させていく過程がある。これはまさに、ハギャレンという外部からの矢を受けて少しずつ位置(価値観)をずらしていった結果と言える​。

要するに結は、みずから物語の大局を動かすよりも、外から飛んでくる意味の矢によって変容する存在として描かれていた​。

この姉妹の対比を圏論風にまとめると、とても興味深い構図が浮かび上がる。歩は周囲の構造に新たな射(意味の流れ)を追加していく作用を持つのに対し、結は他者からの射を受け取って変化する性質が強い​。

簡単に言えば「姉=物語に矢を放つ人」「妹=物語から矢を受ける人」という非対称性である。この構造的な非対称性ゆえに、視聴者側でも「どちらが物語の主人公なのか?」と焦点がブレる現象が起きた​。

本来主人公であるはずの結が、物語の観測者ポジションに近かったために、彼女自身の能動性が弱く映り、逆に姉の歩のほうが物語を動かしているように感じられたのである。

実際、SNSなどでも「結より歩の方がヒロインっぽい」という声が上がっていた。主人公が受動的で、脇役が能動的という逆転現象は、物語構造としては異例。でも、これこそが『おむすび』の挑戦だったのだろう。

なぜ歩はそこまで強烈な存在になったのか?ここで、彼女たち姉妹それぞれの人生を決定づけた矢に目を向けてみたい。その矢とは、そう、物語の背景に横たわる二つの震災である。

3.二つの震災と姉妹 ― 非対称な「意味の矢」が放たれるとき

『おむすび』では、日本現代史の中で誰もが心を痛めた二つの震災が物語に組み込まれている。1995年の阪神・淡路大震災と、2011年の東日本大震災である。

作中では、姉妹が震災の記憶に向き合う場面が描かれた。この二つの震災が、姉妹それぞれに、異なる意味作用をもたらしていた点に注目したい。

まず阪神・淡路大震災だが、これは姉・歩の人生に深い影を落とした出来事として描かれる。

歩は中学生のときに被災した。物語中で描かれたように、歩の親友・真紀という少女が阪神大震災で命を落とした。その後、大人になった歩は、真紀の父親・孝雄(ナベさん)と共に真紀の墓前で黙祷し、「未来の世代にも伝えていかなければ」と誓いを新たにしていた。

歩にとって阪神・淡路の悲劇は、大切な人を奪った消せない傷であり、その後の人生の原動力ともなっている。 この阪神・淡路大震災→歩という因果の矢は、ギャル連合を立ち上げるほどの情熱へ、彼女を駆り立てたと見ることができる。

悲しみと怒りを抱えた歩は、「自分にしかできないやり方で世の中を変えてやる」とばかりにギャル文化で突っ走った。その背景には、震災で大切なものを失った経験があるからこその、強烈な生の実感と社会への反発があったのではと想像される。

圏論的に言えば、巨大な外部イベント(震災)が歩という対象に一方向的な射(変化)を与え、彼女を駆動者へと変容させたと言えるだろう。衝撃をエネルギーに変えて、新たな矢(行動)を次々生み出す存在に、歩はなったのだ​。

では、妹の結にとって、阪神・淡路大震災はどんな意味を持っただろうか。6歳だった結も被災者ではあるが、当時は幼いため、具体的記憶よりも、周囲の大人たちの振る舞いを通じて震災を経験したはずだ。

実はドラマのタイトル『おむすび』は、震災の際に被災地へおむすびを届けたボランティアのエピソードに由来している​。劇中でも、震災直後に、おむすびで人々の心を救ったという話が語られた。

結にとって阪神・淡路大震災とは、直接的な喪失というより、「人と人が結び合う(おむすびを握る)ことで生まれる温かさ」を知った原体験だったのかもしれない。彼女が栄養士の道を志した背景には、幼い頃に見た「食べ物でもう一度人を元気づける」という光景が影響している。

次に描写されたのは、東日本大震災。結が結婚・出産を経て子育てをしている2011年3月、テレビから東北の大震災のニュースが流れるシーンが描かれた。

このとき姉妹が見せた反応は対照的だった。歩はテレビの被災映像を見た途端に呼吸を乱し、昔の悪夢がフラッシュバックする。愛子や聖人に支えられながらも、その心には再び大きな傷が開いたようだった。

だが、歩は倒れ込んだままでは終わらず、やがて「自分たちにできる支援」を模索し始める​。ナベさんから「お前はギャルにしかできないことをしろ」と焚きつけられると、歩はハッと閃く。「そうだ、自分はギャルだ。ギャルのネットワークで助けになれることがあるはず!」と​。彼女はギャル仲間に連絡を取り、現地で本当に必要とされている物資は何かをリサーチし、仲間のチャンミカたちと共に物資集めに奔走した。

この一連の流れは、まさに歩という存在が新たな射を生成する様子そのものである。東日本大震災という外部からの強烈な衝撃(射)を受けて、歩の中で社会支援への思いがけない動きが生まれた。

ギャル仲間のネットワークという彼女固有の資源が、そのまま被災地支援の力になるという展開は、「ギャルにしかできないこと」で世界を動かす、歩らしいエピソードだった。過去の悲劇を個人的な経験で終わらせず、新たな創造的矢に変換した歩。まさに、異なる圏を飛び越えてゆく、彼女の特性がよく現れている。

一方の結は、2011年当時どうだったか。彼女自身は出産後まもなく赤ちゃん(米田花)を抱えている身だった。大震災の報せに衝撃を受けつつも、娘を抱えた彼女は現地に赴くこともできない。

その代わり、結のもとには友人の佳純が訪ねてきて、「被災地に応援に行ったとき、専門学校時代に習った料理を炊き出しで振る舞ったら、とても感謝された」と報告してくれる​。佳純は「結のおかげだよ」と感謝するが、ここでも結本人は間接的な繋がりにとどまっている​。

つまり、歩が震災をきっかけに自ら矢を放ったのに対し、結は他者が矢として放つのを見届けた形だ。

これもまた、姉妹の役割が非対称であることを示している。阪神・淡路大震災と東日本大震災という二つの未曾有の出来事は、姉妹それぞれに異なる意味の矢を投げかけた。

非可逆(元に戻せない)な巨大イベントによって、歩は自ら矢を生み出す存在に駆動され​、結は周囲の矢を受け止めて内面を変化させるという構図がさらに強調された。

圏論で言う射の非対称性(原因と結果の一方向性)が、人物像の非対称性と響き合ったとも言える。 このように見てくると、『おむすび』という作品は、「ギャル」「母」「栄養士」という複数の価値領域を、一連の歴史的文脈(震災の時代)の中で描こうとした非常に野心的な試みだったことが分かる。

では、なぜ、それでも物語がちぐはぐに感じられてしまったのか。最後の大きなピース、「育児圏」という省略された圏と物語の非可換図式について考えたい。

4.「省略された矢」 ― 物語が飛んで見えた理由

物語後半、結は妊娠・出産を経験し母親になる。ところが『おむすび』では、出産後の育児のプロセスがほとんど描かれず、ナレーションで飛ばされてしまった​。

気付けば画面には、いつの間にか娘を育てつつ管理栄養士として働く結が登場する。多数の視聴者は「え?いつの間に!」と感じたことだろう。これは脚本上の大胆な省略だったが、圏論的に見ると物語構造に重大な欠損を生じさせてしまったと言える。

圏論の言葉で表現するなら、この省略は「対象Aから対象Bへの変換が示されなかった」ことに相当する。

対象Aとは「ギャルをしながら栄養士を目指していた結」、対象Bは「病院でNST(栄養サポートチーム)に所属する管理栄養士の結」である。

本来であれば、AからBへ至る途中に「出産・育児を経て成長した結」という中間状態(対象I)が存在し、物語上はA→I→Bという因果の連なりが描かれるはずだった。しかしながら、実際には、AからBへ、いきなりジャンプしてしまったために、「どうしてこうなった?」という理解の飛躍が生まれてしまったのである​。

もう少し噛み砕こう。先ほど述べたA、B、Iを、A=ギャル圏の結、I=育児圏の結、B=栄養士圏の結と置いてみる​。

本来あるべき物語は、AからI(ギャルだった結が母になる変化)と、IからB(母としての経験が管理栄養士としての糧になる変化)だったはずだ。視聴者が納得感を持つには、少なくとも、これらの意味変換の流れが示される必要があった​。

ところが『おむすび』では、育児という結節点自体が描かれないまま物語が進んでしまった​。結果、映像上ではAからBという直接の射だけが暗黙に存在することになる。

しかしこれは圏論で見ると、Iを経由したルートとA→Bのルートが一致しないことを意味する。こうした不整合がある場合、図式が可換でない(non-commutative)と言い、ちょうど、物語における、意味の断絶に対応する現象だと解釈できる​。

実際、『おむすび』の物語構造は、この非可換性を抱えたままだったと言える。ギャル圏・育児圏・栄養士圏という複数の意味領域が並列されたにもかかわらず、それらを結ぶ意味の矢が明示されなかったために、視聴者にとって、物語は連続的に把握しづらいものとなってしまった。

理解や感情移入における「つまずき」は、単に脚本の好みの問題ではなく、物語上の「意味の流れ」の設計ミスとも言えるだろう。言わば、視聴者の脳内で、物語の図式にエラーが発生した状態である。

しかし、ここで「だから『おむすび』はダメな作品だった」と結論づけるのは早計である。むしろ圏論的に見れば、問題の所在がはっきり可視化されたとも言える。

この非可換な図式に、あと一本、意味の矢を放っておけば、物語の意味も通るようになる。そして、どう矢を補えばよかったかについて、圏論はヒントを与えてくれる。

5.物語をもう一度“結び直す”ために ― 新しい視点

圏論的な分析を通じて見えてきたのは、『おむすび』という作品が内包していた構造上の断絶とその背景だった。

複数の価値領域(ギャル圏・育児圏・栄養士圏)を一つのドラマで描くという野心的な試みは、それ自体とても現代的で意義深いテーマだったと思う。

「一人の女性がギャルであり、母であり、専門職でもある」という、多面的な存在の尊さを訴えようとした意図は、確かに本作に込められていた​。

では、どうすればその多面的な価値を一つの物語世界にまとめ上げることができたのだろうか?

圏論になぞらえて言えば、複数の圏を一つの圏に束ねるためには、それらを結ぶ関手的な構造――つまり意味の橋渡しが必要だった​。

『おむすび』の場合、その橋渡しとして「育児」をしっかり描くことが鍵だったように思う。

もし、結が苦労しながら、資格取得と子育てを両立させる過程が丹念に挿入されていれば、その姿に励まされる視聴者も多かったはずだ。

ギャルとして他者へ共感していた結が、掛け替えのない娘に対峙する母へ接続され、さらにそれが管理栄養士としての実践(患者一人ひとりに寄り添うケア)へと統合されていく。そんな意味の可換図式が構成され得たと思う。

また、最終週で、真紀に似た少女・田原詩を引き取ろうとした歩に対し、母親としての説得力を増す=確かな意味の矢を放つことも可能だっただろう。

つまり欠けていた矢を補完すれば、物語はもう一度結び直すことができたのだ。

ギャル圏での経験と栄養士圏での使命が、育児圏という通路を通じて滑らかにつながる流れ。それは視聴者一人ひとりが頭の中で補完することもできるし、スピンオフや小説版などで描かれる余地があるかもしれない。

重要なのは、圏論はこうした断絶を「見えなかったこと」にするのではなく、むしろ積極的に可視化して「ではどう繋げ直せるか?」と問う道具だという点である​。

実際、本作を圏論の視点で振り返ることで、物語の断絶するポイントが浮かび上がった。これは決して『おむすび』を揶揄するためではない。

むしろ、この作品が投げかけてくれた問い――物語において、どのように意味を受け取り、変換し、伝達していくのか?​に真摯に向き合うための作業なのである。

『おむすび』の「接続されなかった意味の空白」が、見る者に問いを投げかけてくれたのだと思う​。

今回援用した圏論は、ものごとの繋がりを形式的に捉える思考法であり、断絶を避けるのではなく断絶を見つけて補い、再構成するための言語なのである。

このドラマは、平成から令和へ流れる時代の中で、人と人が結ばれることの大切さを、さまざまな形で描こうとした。

また、コロナ禍という重要な出来事に、登場人物たちが果敢に立ち向かったことも記憶しておきたい。

たとえ脚本上の綻びがあったとしても、そこから「物語をどう結び直せるか?」という創造的な問いが生まれた。その問いを私たちに差し出してくれた『おむすび』という作品に、改めて敬意を表したい。







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