現代と過去の狭間で
柔らかな冬の日差しを背に劇場の扉をくぐれば、そこはまったく別の世界だ。
真昼の現実と、16世紀の亡霊たちが今まさに蘇ろうとするステージ。その境界で耳を澄ますと、かすかな調弦の音が空間に満ち、観客のざわめきと溶け合っていた。EXシアター六本木に足を踏み入れた瞬間から、その場は単なる劇場ではなく、現代と過去の狭間に立ち現れたライブ会場となっていた。
キャサリン・オブ・アラゴン、アン・ブーリン、ジェーン・シーモア、アナ・オブ・クレーヴス、キャサリン・ハワード、そしてキャサリン・パー——ヘンリー八世の6人の王妃たちがスポットライトを浴びて立っている。しかし、肝心の王の姿はどこにもない。「英国史上もっともスキャンダラスな暴君」ヘンリー八世は影も形もなく、ただ彼の名だけが空洞のように残されている。その不在が奇妙な重力となってステージ全体を包み込んでいた。6人の王妃たちは、その不在の中心を取り囲むようにマイクを握りしめ、まるで真空の中心に向かって歌声を放とうとしているかのようだった。
「Heart of Stone」——胸の奥まで響いた静かなるバラード
眩い照明の中で繰り広げられるポップスの饗宴に身を委ねていく。観客の手拍子と歓声が一体となり、舞台は一夜限りのライブさながらの熱気に包まれる。アップテンポで皮肉たっぷりのナンバーが続く中、ふと空気が変わった。ジェーン・シーモアのターンが巡ってきたのだ。
舞台に静かに進み出る遥海のシーモア。その表情には決意と不安が入り混じり、淡いライトが彼女のシルエットを浮かび上がらせる。曲は「Heart of Stone」。それまで奔放に笑い飛ばすような歌詞や挑発的なビートが支配していた空間が、一瞬にして静まり返った。
静かなアルペジオに乗せて、遥海の歌声が柔らかく響き始める。その声は驚くほど澄んでいて、同時に深い悲しみの色を帯びていた。一音一音を大切に紡ぐような彼女の歌唱には、まるで祈りに似た静けさがある。「石のように強い心」——シーモアが歌うその言葉は、自身の運命を受け入れ耐え抜いた彼女の覚悟の象徴だ。遥海の伸びやかな高音が劇場の隅々まで染み渡るたび、胸の奥底で何かが震えた。舞台袖から他の王妃たちが静かにコーラスを重ね、まるでシーモアの心情に寄り添うように和音を支える。
抒情性と音楽構造——シーモアの歌が担うもの
「Heart of Stone」は、80分間ノンストップで繰り広げられる『SIX』の中でも異色の楽曲だ。ポップ・コンサートの趣向を凝らした他の楽曲に比べ、そのバラードはひときわクラシカルで、抒情性に富んでいる。この楽曲がミュージカル全体の構造の中で果たす役割は大きい。
まず歌詞に注目すれば、シーモアは自らの愛と献身を真っ直ぐに歌い上げる。彼女だけがヘンリーとの間に男子(エドワード六世)をもうけ、「死が二人を分かつまで」愛し続けた妃である。歴史上でも“唯一愛された妃”とされるシーモアのモチーフは、無償の愛と自己犠牲だ。それゆえ歌詞も「あなたが何をしても私は傍にいる」「炎に焼かれ風に晒されても、私の心は石のように壊れない」というような内容が繰り返され、その献身の深さが強調される。
音楽的にも、この曲は安定したコード進行と荘重なメロディラインによって、他のナンバーとは異なる重みを持たされている。例えば曲の冒頭では、Fメジャーの安定した調性の中、揺るぎない愛情を土台から支えるようなコード進行が現れる。このシンプルな循環が耳馴染みの良い安心感を与える一方で、随所に織り込まれた小さな不協和や転調の気配が聴き手をハッとさせる。それはまるで運命の翳りや痛みを象るかのように、穏やかな調和に微かな亀裂を入れる。やがて主和音に回帰するたび、シーモアの決意と愛の強さがいっそう浮き彫りになっていくのだ。
遥海の声の質感もまた、この楽曲に独特の深みを与えていた。彼女の低音は包容力があり、高音は張り詰めたガラスのように繊細だが決して割れない。抑制されたビブラートが切々と想いを伝え、クレッシェンドするたびに感情が波となって押し寄せる。舞台上で彼女が発する一音一音は、まるでシーモアの魂そのものが語りかけてくるようであった。こうした歌唱のディテールが、単なるパフォーマンスに留まらず、観客一人ひとりの個人的な感情にまで訴えかけてくる。その証拠に、曲が終わり静寂が破れて拍手が沸き起こる瞬間、多くの観客が涙を拭っていたのが見えた。
構造的に見ると、「Heart of Stone」は物語のちょうど中盤に位置し、物語全体の重心を一度深く沈める働きをしているように思える。それまで痛快に進んできた舞台は、この曲で一度立ち止まり、愛と喪失の本質に触れる静かな谷間を迎えるのだ。シーモアのバラードは、一人の女性が愛を貫いたがゆえに迎えた死という運命を、観客に真正面から突きつける。華やかなコンサートの流れの中に涙の場を作り出すことで、作品全体に陰影と奥行きを与える橋渡しのような役割を担っているのである。
この抒情的なインタールードがあるからこそ、続くクレーヴスやハワードの曲の鮮やかさや、物語後半で訪れる転調(モデュレーション)が際立ち、観客の心はより大きく揺さぶられることになる。
断片の絆——局所的な物語と層的構造
『SIX』全体の物語構造に目を転じてみる。各ナンバーで描かれるのは、それぞれの王妃たちの局所的な物語だ。アラゴンは王に捨てられた怒りと誇りを、ブーリンは奔放さと悲劇を、クレーヴスは王に愛されなかった皮肉な勝利を、ハワードは純真さゆえに弄ばれた哀しみを——皆、自らの人生を歌に込めて語る。
それぞれの楽曲は曲調もジャンルも個性豊かで、まるで6つの異なる短編小説が次々と紡がれていくかのようだ。しかし不思議と、それらはバラバラには感じられない。むしろ、一つひとつの断片が互いに響き合い、隣り合う物語の間に見えない橋が架けられていく。
このように局所の物語が集積し、最後には共通の世界へと収束してゆく構造は、ある種の「層的構造」と呼べるかもしれない。層とは数学の概念だが、ここでは比喩的に、個別の物語(局所的な真実)が貼り合わせられ、新たな統一的世界観(大域的な真実)が立ち現れる仕組みを指している。
舞台上では、6人の王妃たちがそれぞれ自らの視点から歴史を語り直してゆく中で、一見バラバラだった物語群が次第に相互作用を起こし、ひとつの物語宇宙を形作っていく。そのとき観客は、各王妃の人生の切実さに心を寄せつつも、やがてより大きな物語のうねりに巻き込まれていくのだ。
そしてこの構造を成立させる上で鍵となるのが、キャサリン・パーの存在である。彼女は最後に登場し、自身の曲「I Don’t Need Your Love」で物語の向きを大きく転換する。この曲は当初、パー自身の内省的なバラードとして始まるが、途中から他の妃たちも加わり力強いアンサンブルへと発展する。パーは歌の中で「もはやあなた(ヘンリー)の愛は必要ない」と宣言し、歴史を王から解き放つ。
この瞬間、6人のストーリーは各々の痛み比べという軌道から外れ、互いに手を取り合って新たな未来を描く方向へと収束してゆく。パーは全員の声を束ね上げ、無数の断片だった物語を単一の絵巻へと織りなおす役割を果たす。まさしく彼女は意味重力(意味の中心)を再構成する存在なのである。
ここでは、日本版のパーを演じた和希そらが見事だった。いわば、ゲームチェンジャーとも言うべき重要な役どころを、その類稀なる華と技術力で、高度に昇華してみせた。宝塚歌劇団という一種の異空間からやってきた彼女からは、一瞬たりとも目を離せない、無二のオーラを感受できた。
王の不在が穿つ特異点——空白の中心と再創造される世界
考えてみれば、この物語には初めから奇妙な特異点が穿たれていた。それが、ヘンリー八世という「王の不在」だ。冒頭でも触れたように、舞台上に王は一切登場しない。6人の王妃たちだけが歌い、語り、時に互いに掛け合う。その中心には、本来であれば絶対的な権力者であるはずの王がぽっかりと欠けている。
だが、この欠落こそが物語全体を突き動かす見えないエンジンになっているのだ。王の名は呪文のように繰り返され、その不在はまるでブラックホールのように周囲の時間と空間を歪めている。王妃たちは皆、否応なくその重力に引き寄せられ、自身の人生の軌道を狂わされた存在だと言える。だからこそ彼女たちの物語は常に王を焦点化し、その影に抗いながら語られる。しかし終盤でパーが立ち上がると、この見えない重力場に変化が生じる。
パーは、自らも「生き延びた」王妃として語り始めながらも、最終的には王から離れた場所に物語の中心を据えなおす。彼女が呼びかけることで、他の妃たちもまた自分たち自身の物語の意味を捉え直す契機を得る。6人はもはやヘンリー八世という軸に縛られるのではなく、自分たちの連帯によって新たな軸を生み出すのだ。
まるで夜空の星々が互いの引力で軌道を描き直すように、6つの声は共振し合いながら中心なき中心、誰のものでもない声のハーモニーを作り上げていく。それは個人のソロではなく、かと言って単なる全員の合唱とも違う、不思議な声だ。確かにそこに響いているのに、「誰のものでもない」と感じられる声。歴史の男性中心の重力場から解き放たれたときに初めて立ち上がる、新しい重力圏の胎動である。
こうして物語はクライマックスのフィナーレ「Six」へとなだれ込む。この楽曲は、それまでそれぞれのソロ曲で示されたテーマをリプライズしつつ、皮肉な結末を塗り替える勝利のアンセムとなっている。例えば、歌詞では冒頭に紹介された6人の末路——“Divorced, Beheaded, Died, Divorced, Beheaded, Survived”——が再び登場するが、フィナーレでは「私たちは離婚も斬首も死も乗り越えてHere we go!」といった具合に、過去の悲劇を笑い飛ばし乗り越えた者たちの凱歌へと転じている。それぞれのメロディ・モチーフも華やかなポップス調に再編され、6人が横一列に肩を並べて歌い踊る姿は圧巻だ。そこではもはや勝者も敗者もなく、王妃たちはクイーンとして、物語の主役として舞台を支配している。
余韻——「そのあいだ」に芽生える光
終演後に劇場を出ると、昼の淡い光が、まだ街を包んでいた。現実の世界は刻一刻と変化してゆく。それでも胸に残る熱は、先ほどまで見ていた夢が確かにただの夢ではなかったことを物語っている。
『SIX』2025年日本版公演での体験は、単なる歴史コンサートの枠を超えて、私にとって一篇の詩のようでもあった。構造を分析すればするほど、その精巧さに驚嘆する。だが同時に、分析では追いつかない魂の震えがそこにはあった。
舞台上で響いたあの誰のものでもない声——それは歴史に埋もれてきた無名の声たちの、あるいは時代を超えて連帯し合う私たち観客一人ひとりの内なる声の、化身だったのかもしれない。
6人の王妃たちが世界を選びなおす物語を目撃したあの午後、劇場というあいだの空間でも、確かに世界はひとつ選びなおされ、私は新しい眼差しと共に現実へと送り出されたのだった。
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