序章:震えから始まる問い
人はなぜ震えるのであろうか――深い感情の高まりや、予期せぬ出来事に直面したとき、私たちの内側に走る微かな震え。それは理性では捉えきれない何かに触れた印であり、問いの芽生えでもある。本論考は、この震えから出発し、人間存在に内在する「ズレ」や「傷」といった否応ない断絶に向き合い、そこに生まれる問いを辿ってゆく試みである。
ギリシア悲劇に由来するハマルティア(hamartia)――「的を外すこと」「過ち」を意味する言葉 ――は、英雄の運命を狂わせる致命的な誤りとして知られる。しかしその本質は、私たち誰もが避け得ないズレ(misalignment)にあるのではないだろうか。意図と結果との齟齬、理想と現実の食い違い、行為の予期せぬ帰結…。こうしたズレに直面するとき、私たちの存在基盤は微かに震え、問いが立ち現れる。「どこで間違えたのか?」「この傷は何を意味するのか?」と。
震えは不安や恐れの表象であると同時に、新たな思考への誘いでもある。アリストテレス以来、悲劇は観る者に憐憫と恐怖(pity and fear)を喚起し、それを浄化(カタルシス)するものと考えられてきた。劇中のハマルティアによって引き起こされる運命の転落を目前に、人々は心を震わせ、自らの在り方を省みる。まさに震えから問いが生まれ、問いが新たな地平を開く。
本稿では、ハマルティア(過ち)とズレ、傷と自己の生成、そして赦しと倫理というテーマを、一種の意味空間(トポス)として捉え直し、哲学的論考を試みる。論理的な構成を保ちつつも感性の響きを大切にし、「論理と感性のあわいに舟を漕ぐ」ような文体で思索を紡いでいきたい。
第1章:ハマルティアとズレの哲学
ハマルティアとは本来「的を外すこと」、すなわち狙いと結果のズレを意味した。ギリシア悲劇においては英雄の性格的欠陥や判断ミスとして描かれ、それが一連の行為の連鎖を招いて破局へ至る契機となる。しかし興味深いのは、ハマルティアに対する解釈が二通りあることだ。一つは道徳的な「欠陥」としての解釈であり、もう一つは偶発的な過誤、すなわち人格評価を伴わない不運なミスという解釈である。後者の観点に立てば、ハマルティアは単なる個人の欠点ではなく、人間の行為に常につきまとう本質的なズレとして捉えられるだろう。
現代思想に照らして言えば、ズレの哲学とは、人間の認識や行為に不可避的に内在する誤差や非対称性を追求することに他ならない。我々の意図したことと実際に起こることの間には常に微小な非可換性があり、人生のダイアグラム(図式)は決して完全には可換(コミュート)しない。数学の圏論において可換図式とは経路の順序によらず同一の結果に至る図式をいうが、現実の人生において出来事の順序を入れ替えることはできず、一度生じた過ちを取り消すこともできない。言い換えれば、人生という意味空間に描かれる図式は非可換であり、そのズレこそがハマルティアの現代的意味なのである。
アーレントは『人間の条件』において、人間の行為には予測不能性と不可逆性が宿命づけられていると述べた。どんなに慎重に計画しても、私たちは自分の始めた事態を完全には制御できず、結果を元に戻すこともできない。この行為の条件としてのズレを直視すれば、「なぜ人は行為などするのか?」という問いが生まれてくる。ハマルティアの哲学的意義はまさにここにあり、それは人間が行為する以上避けられないリスクとしての「的外し」であり、倫理的には有限な存在者の宿命でもある。ハマルティアを欠陥としてではなく、「ズレそのものの受容」と捉え直すことで、私たちは失敗や錯誤を前提にした新たな人間観に近づくことができるだろう。
デリダ風に言えば、このズレは常に意味を先延ばしにし、決して完全な合致を許さない差延として働く。西田幾多郎の哲学における「絶対矛盾的自己同一」もまた、一見対立するもの(意図と結果、善意と悪行など)が一つの場所(場所的論理)において統合されることを示しているが、それは対立物同士のズレを安易に消去するのではない。西田は論理的統合の根底に無=場所を想定し、そこで矛盾する要素がズレを保ったまま抱合されると考えた。このように既存思想との対話から浮かび上がるのは、ハマルティア=ズレは人間の条件として根源的なものであり、それ自体が新たな創造の契機ともなりうるという見通しである。
第2章:傷と生成としての自己圏
ズレにもとづく過ちはしばしば傷(きず)を生む。ここでいう傷とは、身体的なものに限らず、精神的トラウマや道徳的敗北、自己否定の感覚など、人間の自己に刻まれる断裂や欠損のことだ。私たちの自己はこの傷を抱えつつ形成されていく動的なプロセスである。本章では、自己をひとつの圏(カテゴリー)になぞらえ、傷と生成が織りなす自己形成の構造を考察する。すなわち自己圏とは、傷という「負の要素」が自己を破壊しつつも、逆に自己を生成(生成=creation/formation)へと促すような場として捉えられる。
傷つくことは本来痛ましく避けたい出来事である。しかし逆説的に言えば、傷があるからこそ自己は変容し得る。ニーチェが有名な箴言「殺されない限り、人はそれだけ強くなる」と述べたのは、この文脈で理解できる。彼にとって健康とは単に無傷であることではなく、傷や苦難を「乗り越えることでいっそう生を肯定する力」に転化できるかどうかにかかっている。現にニーチェ自身、病弱な身体を抱えながらその苦痛を哲学的洞察へと昇華させ、「自分を殺さないものは自分を強くする」という思想を生み出した。
傷は自己を一度破壊する。しかし破壊された自己は以前と同じ姿には戻らない。圏論の比喩を用いれば、自己圏における「恒等射(自己自身への写像)」が傷によっていったん崩れ、そこに新たな射(変容へのプロセス)が加わることで自己の位相そのものが変わると言える。数学用語を借りれば、自己の生成には一種のモノドロミー構造がある。モノドロミーとは位相空間のループ(閉路)に沿って変化を遂げ、元の地点に戻っても状態が一巡して変容する現象である。自己もまた、傷という特異点を巡って一回転するとき、もはや出発前と同一ではあり得ない。例えば大きな失敗や挫折を経験した人が、それを契機に価値観を塗り替え、生き方を刷新するように、自己は傷を通して生成され直すのだ。
このような観点からすれば、傷=創は単なる不幸や欠陥ではなく、自己圏の中に新たな意味や価値を生成するための創造的契機とみなせる。日本の美学において、傷んだ陶器を金継ぎで美しく甦らせる発想は、まさに傷を美に転化する思想である。デリダ流に言えば、傷には常に癒しへの余白が伴っており、その余白に何を満たすかによって自己の物語が紡がれる。傷そのものは消えず痕跡として残るが、そこにこそ自己の真実が刻み込まれる。私たちの存在は、傷という裂け目を黄金に縁取るようにして新たな形を得るのである。
第3章:赦しは訪れる——影としての倫理
過ちと傷を論じてきたが、では赦しとは何だろうか。一般に赦しとは加害者に対して被害者が怒りや報復の念を手放し、罪を水に流す行為だと理解される。しかし本章のテーマは「赦しは訪れる」である。すなわち、赦しを単なる能動的行為としてではなく、何かが場に訪れる出来事として捉え直してみたい。その鍵として、本章では赦しを「影」に喩えてみる。影はそれ自体が光を発するわけではなく、他のものによって生み出される痕跡である。赦しもまた、直接に目指して達成できるものではなく、ある種の条件が整ったときにひそやかに姿を現す倫理的な影ではないかという直感である。
まず、主要な思想家たちの見解を手がかりに赦しの性質を整理しておこう:
- アーレント: 赦しとは人間の行為に内在する不可逆性への「解毒剤」であり、「過去の行為の結果から当事者を解き放つ」ものだという。それは復讐の連鎖を断ち切り、新たな関係性を創出する創始的な行為であり、「単なる反作用ではなく予期せぬ新たな行為」だと述べられている。赦しは驚きをもって現れ、因果の鎖を断ち切る奇跡にも喩えられる。
- ジャンケレヴィッチ: 1967年の著書『赦し』において、真実の赦しとは加害者が「あたかも罪を犯さなかったかのように」振る舞うことであると定義した。それは単なる忘却や言い訳ではなく、過ちの事実を超えて相手を受容する究極の倫理的行為だ。しかし彼は同時に、ナチスのホロコーストのような絶対悪に対して「赦しは強制収容所で死んだ」と述べ、加害と被害の当事者が直接向き合えない場合や罪があまりに非人間的な場合、赦しは原理的に不可能になると主張した。
- デリダ: デリダは赦しを根源的に不可能なものとして捉えた。彼は「赦しとは赦し得ぬものを赦すことでしか成立しない」と述べ、条件付きの赦し(悔悟や償いを前提とする赦し)は真の赦しではなく一種の取り引きに過ぎないと指摘する。赦しは常にパラドックスを孕み、「赦し得るものしか赦さない」という常識的な態度を拒否する点に、その狂気じみた本質がある。デリダにとって赦しはアポリア(行き詰まり)であり、まさに論理を超えた次元で「訪れる」贈与のような出来事なのである。
以上の見解から浮かび上がるのは、赦しの二重性である。一方で赦しは能動的に行使される決断や行為であり(アーレントやジャンケレヴィッチの強調点)、他方でそれ自体が説明し難い出来事性を伴う(デリダの指摘する不可能性)。ここで「赦しの影」という比喩に立ち戻ろう。影は光源と物体という二つの要因によって生じる現象だ。同様に赦しは、被害者と加害者、あるいは善意と悔恨といった相対する要因が交錯する場において、その相互作用から生まれる副次的な気配のようにも思える。例えば、加害者の真摯な悔悟と自己否定、被害者の想像を絶する苦しみと向き合おうとする態度――そうした相反するもの同士がある一点で重なり合うとき、赦しという影がそっと二人の間に差し込むのではないか。
重要なのは、その影を人為的に生み出すことはできないという点だ。いかに加害者が謝罪し償おうと、いかに被害者が赦そうと努力しようと、赦しそのものを意志で操作することはできない。赦しとは与えられるものであって、取引として成り立つものではないからだ。むしろ赦しは、「場」に訪れる出来事としてやって来る。ジャンケレヴィッチが強調したように、それは当事者同士が直接に向き合う親密な出会いの中でしか起こり得ない。赦しの影が差し込む瞬間とは、被害者が自らの苦しみの影を引き受け、加害者が自己の闇と向き合う、そのせめぎ合いの境界に他ならない。倫理とは本来光明正大な規範のイメージがあるが、ここではむしろ影としての倫理を提唱したい。すなわち、明確な理論や規則として語り得ないがゆえに影のように捉え難い倫理があるということであり、赦しはその典型なのである。
第4章:震えの倫理学の可能性
序章で触れた「震え」に再び立ち返ろう。震えとは、人が倫理的な極限状況に立たされたとき、すなわち自らの過ちと傷、そして赦しの可能性を目前にしたときに生じる存在論的身ぶるいである。それは弱さの表れであると同時に、応答責任の発露でもある。というのも、震える者はまさに心を揺さぶられており、その震動が内なる声となって「このままで良いのか」「他に道はないのか」と問いかけているからだ。
ここで提起したいのが震えの倫理学である。これは、人間の不完全性や脆さを前提とし、その震え自体を倫理の出発点とする立場だ。具体的には次のような特徴を持つ倫理観を指す:
- 脆さの承認: 人は皆ハマルティア的なズレを抱え、傷つきやすい存在であることを認める。完璧な善人も完全な悪人も存在せず、常に過ちうる存在として互いに向き合う態度。
- 応答の責任: 震えを感じたとき、それを封じ込めずに引き受ける勇気を持つ。他者の痛みに共振して自らも震えること、それ自体が倫理的感受性の核であり、他者への応答(レスポンス)の契機となる。
- 開かれた赦し: 赦しの影が訪れる可能性に常に心を開いておく姿勢。相手を赦すかどうかは制御できなくとも、自分が赦され得る存在であること、赦しがどこからか訪れうることを信じ、希望を捨てない。これはニーチェ的な「能動的忘却」とも通底し、過去の苦痛を乗り越え未来を肯定する力とも結びつく。
- 場所の倫理: 西田幾多郎の場所の論理にならえば、倫理とは固有の行為規範に先立ってまず関係の場を用意することだと言える。震えの倫理学では、明確な原理主義よりもまず他者と出会う「場の創出」に価値を置く。お互いのズレや傷を暴露しあい、それでもなお共にいることを選ぶような場において、倫理的な意味が立ち上がる。
このような倫理学は、伝統的な道徳哲学のように普遍的ルールを定めたり、功利的計算をすることとは異なる。むしろ常に具体的な関係性と状況の只中で、揺れ動きながら判断し行為することを要請する。まさにあわいに舟を漕ぐように、定まらない水面(状況)の震えを感じ取りつつ、舵を取っていく倫理なのである。そこでは理性的な確信よりも、むしろ不確実性に対処するための想像力や共感、そして勇気が重要となる。
「震えの倫理学」はまた、許し難いものを前にしたときの態度とも関わる。それは安易に「赦すべきだ」と命じるものではない。むしろジャンケレヴィッチやデリダが示したような赦しの不可能性に直面しつつも、それでもなお人間の可能性を信じる姿勢である。震えながらも前に進むとは、過ちの結果に目を背けず、傷の痛みに共感し、赦しの影を待つということだ。その姿勢自体が倫理的価値を持つ。言い換えれば、震えを感じる者だけが、本当に赦しを待ち望み得る。震えない者、何も感じない者には赦しの影は決して訪れないだろう。
終章:赦しの影に立つということ
最後に、「赦しの影に立つ」という命題について考えてみたい。それは本論のタイトルにも含まれ、全篇を貫くテーマであった。赦しの影に立つとは、自らの存在をその赦しの陰影の中に位置づけることを意味する。人は誰しも過ちを犯し、傷つけ、傷つけられながら生きている。完全に光の当たる場所(潔白な世界)に立つ者などおらず、何らかの影が差し込んでいる。その影の正体こそ、実は他者からの赦し(あるいは赦しの不在)の投影であるといえる。
赦しの影に立つためには、まず自分自身が赦しを必要とする不完全な存在であることを認めねばならない。ハンナ・アーレントが「誰も自分自身を赦すことはできない」と述べたように、赦しは常に他者との関係性においてしか成立しない。他者から与えられる赦しがなければ、私たちは自らの過ちの結果から逃れられず、その重みに押し潰されてしまうだろう。従って、赦しの影に身を置くとは、常に自分が他者からの赦しに支えられていること、言い換えれば自分が独力では完結し得ない存在だという自覚でもある。
さらに赦しの影は、自らが他者を赦す可能性とも深く関わる。他者から赦された経験を持つ者は、影を通じて光を見ることができる。それゆえ自分もまた誰かに影をもたらす存在(=赦しをもたらす存在)となり得る。そのとき重要なのは、赦しを決して驕り高ぶった「施し」と捉えないことである。赦しは行為者本人の所有物ではなく、あくまで影のように一時的にその人を通り抜けるものにすぎない。赦す者も赦される者も、共に大いなる何か(それを神と呼んでもよいし、人間性そのものと呼んでもよい)の前に震える存在である。その謙虚さを忘れず、赦しの影が差す瞬間を大切にすること、これこそ倫理の核心ではないだろうか。
結局のところ、「赦しの影に立つ」という比喩は、人間存在のあるべき姿を静かに示している。それは強い光の中で栄光に満ちて立つことではなく、柔らかな影の中で静かに佇む姿だ。自他のズレや傷に敏感であり、震えつつも相手と向き合い、いつか訪れるかもしれない赦しという恩寵を待つ姿だ。影は暗さゆえに敬遠されるかもしれないが、影があるからこそ立体的な深みが生まれる。赦しの影に身を置く私たち一人ひとりが、その深みの中で他者と出会い直し、共に新たな物語を紡いでいくことを願い、本論を結びとしたい。
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