沈黙のトポス〜反解釈とネガティブ・ケイパビリティ

水の入ったコップのイメージ

序章:語らないという行為の意味

私はSNS、とりわけX(旧Twitter)の世界に身を置く中で、沈黙とは単に「何もしない」ことではなく一つの行為だと感じることがある。情報と声が飛び交うタイムラインにおいて、何も語らずにいるという選択は、周囲からはしばしば「無関与」や「存在感の希薄さ」と映るかもしれない。しかし、それは本当に「何もしていない」ことなのだろうか。むしろ私は、語らないという態度にこそ一種の意志や意味が宿っているのではないかと考えている。

現代のSNSでは、感じたことや考えたことを即座に言葉にし、投稿することが半ば義務のようになっている。この目に見えない同調圧力は「言語化圧」とでも呼べるかもしれない。出来事や感情をリアルタイムで共有しなければ「出遅れる」という焦り、沈黙していると「存在しないも同然」とみなされてしまう不安――そうした空気が日常的に渦巻いている。だが、全てを言葉にできるわけではないし、無理に言葉にした途端に本来の感覚から微妙なズレが生じることもある。発した言葉は私の内面の一部しか表さず、時にその言葉によって自分でも予期しなかった意味が付与されてしまう。そうして、SNS上に表現された私と、沈黙の内に在る私との間に少しずつ齟齬が蓄積していくように感じられる。

だからこそ今、語らないという行為の意味を改めて問い直したいと思う。言葉にならない想いや震えをあえて抱えたまま沈黙することに、どんな価値があるのか。それはSNSという意味生成の場に抗う試みであり、自分自身の存在のズレと向き合うための一つの方法ではないだろうか。本稿では、XというSNSの構造を見つめ直し、ソンタグやキーツの視点を手がかりに、沈黙というトポス(場)が持つ力と可能性について考察する。そして最後に、そのズレを抱えながらどう生きていくのかという問いに対する私なりの答えを探ってみたい。

Xという構造:意味生成トポスとしてのSNS

Xは単なる情報発信ツールではなく、ユーザー同士が絶えず意味を生成し共有する巨大なトポス(場)である。タイムラインには無数の出来事や意見が流れ込み、それぞれが言語化されることで初めて「出来事」として認識されていく。言葉にされた事実や感情は他者によってリポスト(リツイート)やいいねで増幅され、コメントによって解釈が付け加えられる。それらの相互作用の中で、当初はただ起きただけの出来事がプラットフォーム上で特定の意味合いを帯びた「物語」へと変貌していく。言い換えれば、X上では語られたものだけが社会的現実として可視化され、語られないものは存在しないも同然の扱いを受ける。

この構造の中では、一人ひとりのユーザーもまた自身の存在を言葉によって証明せざるを得ない。沈黙を続けるアカウントはフィードの奔流に埋もれ、周囲から「いない」に等しいものとして扱われてしまう危険すらある。私自身、重大な事件や流行の話題が持ち上がったとき、何も発信しないでいると強い取り残され感を覚えることがある。まるで巨大な会議で自分だけが黙り込んでいるような孤独と焦燥——Xという構造そのものがユーザーに対して常に「何かを語れ」と迫ってくるのだ。その結果、内心まだ考えがまとまっていなくても、とりあえずその場の空気に合わせた意見を表明してしまうことがある。しかしこうした衝動的な発言は、往々にして自分の本心とのズレを生む。熟考する間もなく放った言葉に後から違和感を覚え、「あれは自分らしくなかった」と後悔する経験を私は何度も味わってきた。

また、X上で積み重ねた発言の数々を振り返ると、自分で書いたはずの言葉が他人事のように感じられる瞬間がある。基本140字という制限の中で絞り出した言葉は常に断片的で、そこに自分の全存在を映し出すことはできない。タイムラインに刻まれた私は、私自身ではあるが一側面でしかない。それにもかかわらず、SNSの世界では発せられた言葉こそが人格や立場を形作っていく。言語化されない部分は最初から「ないもの」として切り捨てられるため、言葉に表れた像と内面的な実感との間にどうしてもズレが生じる。このズレは積み重なれば積み重なるほど、自分が本来どんな感覚や価値観を持っていたのか見失わせる危険さえ孕んでいる。

さらにSNSでは、「何かを的確に言語化できること」が称賛される風潮もある。「よく言語化してくれた!」という言葉が象徴するように、曖昧さを言葉に変換して共有する能力がもてはやされる。しかし、いくら巧みに言葉にしてみせても、その瞬間にその体験のすべてを捉え尽くせているのだろうか。Xという意味の交錯する場で言葉を尽くすうちに、私たちはいつしか言葉に表れない感触や震えを置き去りにしてはいないか。この問いに向き合うために、次章ではソンタグやキーツらの視点を手がかりに考えてみたい。

ソンタグの反解釈とキーツの否定的能力

アメリカの批評家スーザン・ソンタグは、「解釈しすぎること」への強い異議を唱えた人物である。彼女は1960年代に発表した有名なエッセイ「反解釈(解釈に反対して)」(Against Interpretation)の中で、現代人は意味の分析に囚われるあまり、対象そのものを感じる力を失っていると指摘した。

反解釈 (ちくま学芸文庫) [ スーザン・ソンタグ ]
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芸術作品を鑑賞するとき、私たちはすぐに「これは何を象徴しているのだろう」「作者は何を伝えたいのだろう」と頭で理解しようとしがちだ。しかしソンタグによれば、その態度こそが作品の持つ生々しい力を奪ってしまうという。彼女は「解釈の代わりに官能(エロティクス)を」とまで述べ、意味づけをいったん脇に置いて、目の前のものから受ける感覚や衝撃に身を委ねることの重要性を訴えた。このソンタグ的な「反解釈」の姿勢は、一言で言えば「考えすぎずに感じる」ことに価値を置く態度である。

この視点からSNSでの振る舞いを見直してみると、私たちが日々どれほど「解釈」に忙殺されているかに気づく。何か心を動かす出来事に出会ったとき、すぐさまその意味を言語化しようとしていないだろうか。たとえば感動的な映画を観終わった直後、本来なら言葉にならない余韻に浸っていたいはずなのに、私はついSNSに感想を書き込もうとして頭の中で語彙を探し始めてしまう。そうして投稿を終えたとき、鑑賞直後に胸を満たしていたはずの震えるような感動が、いつの間にかどこかへ薄れてしまっている。喜びや悲しみのただ中にいる瞬間に、敢えて言葉を持ち出さずにいることはできないのか、と自問する。言葉にしないままでいることで、その瞬間にしかない震えをもうしばらく抱きしめていられるのではないか。

ソンタグの言う「解釈の放棄」は、何も永遠に沈黙せよという極端な話ではない。それはせめて一瞬でも、私たちが感じているものを感じきる猶予を自分に与えることだ。強い衝撃を受けたとき、言葉はしばしば後からついてくるものである。であれば、無理にその順序を逆転させる必要はないだろう。胸が震えているなら、その震えが伝えてくるものにじっと耳を澄ます。そこには解釈を通じては届かない微細な響きがあるかもしれない。たとえ周囲が次々と言葉を発して先へ進んでいこうとも、自分だけはしばし沈黙の中に留まってみる。ソンタグ的な態度で言えば、それは外界の意味の渦に抗い、自分の内側に立ち戻る行為である。そして私は、その沈黙の余白から生まれるものこそが真に大切なのではないかと感じている。

言葉に変換されなかった「震え」は、決して無意味なものではない。むしろ、それは後になって形のある言葉へ成熟していくための胎動と言えるかもしれない。解釈を保留し、語らずにいる時間は、一見すると何も生み出していない空白のように思える。だがその空白こそ、感じたことが純粋なまま心に染み渡る余地であり、言葉というフィルターを通さずに世界と向き合うための小さな隙間なのだ。私はその隙間にこそ価値を見出したいと考える。語らないままでいるという選択は、単なる逃避や消極性ではなく、解釈と反応の連鎖から一歩身を引き、心の震えを掬い取るための能動的な態度なのである。

解釈を保留し、語らずにいる時間は、一見すると何も生み出していない空白のように思える。だがその空白こそ、感じたことが純粋なまま心に染み渡る余地であり、言葉というフィルターを通さずに世界と向き合うための小さな隙間なのだ。

この“わからなさ”にとどまる勇気を、詩人ジョン・キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」(否定的能力)と呼んだ。明確な答えを急がず、曖昧さや不確実さとともに居る力――それはまさに、震えを震えのままに抱える感性と重なっている。

沈黙のトポス:語らないことの構造

私は、SNS上であえて沈黙を貫くことで生まれる独自の場を「沈黙のトポス」と呼びたい。前章で触れたように、語らないという行為は単なる消極性ではなく能動的な態度である。とはいえ、沈黙にも色々な形があることは確かだ。単に関心がないから語らない場合、発言する勇気がなくて黙っている場合、あるいは言葉を失うほどの衝撃に呆然としている場合――沈黙の背景には様々な理由が潜んでいる。ここで論じる「沈黙のトポス」とは、そうした消極的・受動的な沈黙ではなく、自らの意志で選び取った沈黙である。言葉にできない思いを無理に語らず心に留めておく沈黙、あるいは言葉にしないことで大切な何かを守ろうとする沈黙。それは内的な意志によって形作られる沈黙の構造だ。

沈黙のトポスに身を置くとき、人は周囲の喧騒と半歩距離をとって世界を眺めている。タイムラインで皆が次々と言葉を紡ぐ中、自分だけが別の時間軸にいるような不思議な感覚がある。慌ただしい議論の流れから意図的に外れることで、かえって全体像が見えてくることもある。沈黙とは何も考えていない状態ではない。むしろ、外界への応答を一時停止することで、内側ではより深い思索が巡り始める。誰かの意見に即座に反応する代わりに、その意見の背景や自分の本当の気持ちを静かに咀嚼する時間が生まれるのだ。

沈黙している間、私は「聴く者」「見る者」としてそこに存在している。SNS上では投稿こそしていなくとも、私は流れていく他者の言葉に耳を傾け、心の中で対話を試みている。沈黙のトポスとは、声を発しないまま参加するコミュニケーションの在り方とも言えるだろう。誰も私の沈黙に気づかなくても、私自身は沈黙という行為を通じて世界と向き合っている。この構造においては、コミュニケーションは表出された言葉だけでは完結しない。表に出ない思考や感情もまた、私という存在の反応として確かにそこにある。沈黙とは見えない対話なのである。

沈黙を続けることで見えてくるものもある。たとえば、誰かが強い主張を展開しているとき、すぐに賛否を表明せずにいると、その人の言葉遣いや背後にある感情に普段より敏感に気づけることがある。自分が発言する順番を待つのではなく、純粋な受け手に徹することで、普段は聞き逃してしまうニュアンスが浮かび上がってくるのだ。また、沈黙は往々にして相手にも沈黙の余地を与える。対話においてこちらが沈黙を恐れず間を取ると、相手もふと考え込んだり、言葉に詰まったりすることを許容できるようになる。不思議なことに、沈黙は伝播するのである。誰かが言葉を尽くさないとき、その場には小さな余白が生まれる。その余白にこそ、本音や思いがじんわり滲み出してくることもある。

「沈黙は金、雄弁は銀」という古い格言がある。喋ることがもてはやされる現代のSNSに持ち出すのは一見ミスマッチかもしれない。だが、私はこの言葉の中に未だ真実を見出す。言葉を操る銀の輝きも確かに魅力的だが、ときに黙して黄金の静けさを選ぶことでしか得られないものがある。沈黙のトポスとは、まさにその黄金の静けさが支配する空間である。そこでは私は世界から半歩退き、自分自身のズレを静かに引き受ける。沈黙することで際立つ世界とのズレ――それは孤立を意味するのではなく、自分という舟が自分の調子で浮かんでいることを自覚する瞬間なのだ。

結論:ズレを生きる舟

沈黙のトポスについて論じてきたことの根底には、「ズレ」を肯定的に捉え直したいという思いがある。SNSで感じる自分と周囲とのズレ、内面の感覚と外向きの言葉とのズレ――私たちは常に何らかの不整合を抱えながら生きている。本当は完全に分かり合えない、完全に言語化できない部分を各々が持っている。SNSのタイムラインでは、そのズレが見えなくなるほど一瞬で皆が同じ話題に飛び付き、同じ言葉を繰り返すことがある。しかし私は、見えなくなっただけでそのズレ自体は消えていないと思うのだ。沈黙することで浮かび上がるズレは、私たちが他者とは違うリズムを生きている証であり、自分という存在の輪郭そのものでもある。

ズレを恐れてはいけない、と今は強く感じている。無理に周囲と同調させた言葉を発しても、自分の舟はきっとどこかで軋みを上げるだろう。そうではなく、自分だけの感じ方やペースを大切に守りながら、その上で世界と関わっていけばいい。沈黙は、そのための一つの方法である。語らずにいることで一時的に世界との齟齬を引き受け、自分の軸を取り戻す。それは孤独な作業に思えるかもしれないが、決して独りぼっちで漂流するわけではない。自分という舟は、たとえ帆を下ろして静かに漂う時があっても、海図なき海を見失っているわけではないのだ。むしろ、水面下に感じる確かな流れに身を委ねながら、次に掲げる帆に風が吹くのを待っている。

沈黙ののちに改めて言葉を発するとき、その言葉はきっと以前よりも自分の真実に即したものになっているだろう。沈黙の中で熟成された思いは、表現されるときに深みを帯びる。たとえ完全に伝わりきらずズレを含んでいたとしても、そのズレごと相手に届けるつもりで語ればいい。それでこそ対話は面白いし、他者との間に新たな意味が芽生える余地も生まれる。何もかも解釈し尽くし、隙間なく言葉で埋め尽くしてしまった世界より、少しズレが揺らめいているくらいの世界の方が、私には豊かに思える。

私という小さな舟は、これからも言葉にならない思いの海原に浮かび続けるだろう。そして必要なときには帆を上げて、自分なりの言葉で風を受け進んでいく。その航海はおそらく、生の実感と表現とのズレという波間を行く旅だ。沈黙という静かな波間に目を凝らし、震えるような感受性を羅針盤として進むとき、きっと私なりの目的地が見えてくるに違いない。語りすぎないことで見えてくる真実がある。沈黙のトポスに身を置き、ズレを生きる舟として舵を取ること――それが、SNS時代における私のひとつの答えである。







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