1. はじめに:なぜ『虎に翼』とデリダの正義論を接続するのか?
NHKの「連続テレビ小説」『虎に翼』(2024年前期放送)は、日本初の女性弁護士の一人にして初の女性判事となった三淵嘉子氏の実話をもとに、困難な時代に道なき道を切り開いた女性法曹とその仲間たちの波乱万丈の物語を描いた作品である。
法曹界の歴史を舞台にした本作は、単なるヒロインの成功譚に留まらず、視聴者に「正義とは何か」「法とは何のためにあるのか」という根源的な問いを投げかけ、多くの人々の心を動かした。
こうした問いは、フランスの哲学者ジャック・デリダが提起した正義論――すなわち「法は脱構築できるが、正義はできない(法は解体しうるが、正義そのものは解体しえない)」という命題――と深く共鳴する。本稿では、『虎に翼』の物語世界をデリダの正義論の観点から読み解くことで、ドラマが伝えるメッセージをより思想的に掘り下げてみたいと考える。
デリダは法哲学の分野で「法の力(Force of Law)」(1990年)という講演/論考において、法と正義の関係を独自の視点から論じている。その中で彼は、「法(droit)は脱構築しうるが、正義(justice)は脱構築不可能である」と述べ、法=権利と正義を峻別した 。一見抽象的に思えるこの命題が、『虎に翼』のドラマ展開にどのように当てはまるのか。本稿の目的は、それを具体的に示すことである。
以下ではまず、第2章でデリダにおける「法/正義」の差異と「脱構築」の概念を概説する。次に第3章では『虎に翼』の物語構造を整理し、舞台となる時代と空間のダイナミズム(動的トポス)を分析する。第4章では物語の中で十分に語られなかった者たち――法によって排除されたり歴史の表舞台から消されてきた人々――に焦点を当て、その「震え」(抑圧された呼び声)が法を超えて何を呼びかけるのかを考察する。第5章ではドラマ中盤のクライマックスである桂場裁判官の判決シーンを検討し、それが物語構造の芯をいかに震わせたかを論じる。第6章ではデリダ的観点から『虎に翼』全体を再解釈し、このドラマが正義についての一種の寓話とみなしうるかを問う。最後に第7章の結論では、作品世界から投げかけられた「呼びかけ」に対して、視聴者である私たちはどのように応答し得るのかをまとめたい。
2. 理論背景:デリダにおける「法/正義」の差異と脱構築の概念
ジャック・デリダ(1930–2004)は20世紀後半を代表する思想家であり、「脱構築」という概念で知られる。デリダによれば、「脱構築」とは単なる破壊ではなく、ある体系やテクストに内在する矛盾や隠された前提を暴き出し、それを乗り越える契機を生み出す思考の働きである。法の領域においてデリダは、「法(=人間の制定した法体系)は常に不完全で歴史的なものであり、したがって批判や見直し(脱構築)が可能である。一方、正義とは無限の理想であり、究極的には決して到達し得ないため、脱構築の対象にはなりえない」と論じた。この主張を整理すると、次の3点にまとめられる。
- 法は脱構築できる。 法は本来、正義を体現するためにあるはずだが、現実には完全に正義と一致することはない。どんな法にも必ず、その枠組みでは救済できない「特異な他者」や例外的状況が存在するからである。ゆえに我々は、法が取りこぼしている声に耳を澄まし、法そのものを批判的に再検討し続けることができる(そしてすべき)のである。
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正義は脱構築できない。 デリダが言う「正義」とは、特定のルールや制度として固定化されたものではなく、常に新たな他者の訴えに開かれた無限の使命のようなものである。それはちょうど、宇宙の地平線のように「理論上は存在しうるが決して観測できない果てしなさ」に例えられる。完全無欠の正義は人知の及ばぬ理想であるがゆえに、それ自体を分析解体する(脱構築する)ことは不可能なのだ。正義とは、我々が常に近づこうと努めつつも決して手中に収めることのできない「不可能なものの経験」に他ならない。
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脱構築は正義と法の隔たりの間に存在する。 デリダは、「正義という脱構築しえないものがあるからこそ、法は脱構築しうるのだ」と述べている。言い換えれば、絶対的な正義というコンパスがあるからこそ、我々は現行の法をより正義に近づけるために批判し、修正する余地が生まれるということである。デリダは、正義と法のあいだに常に埋めがたい隔たりがあることを強調し、その隔たりを意識し続ける限りにおいてのみ法の改革(脱構築)は意味を持つと説く。この隔たりこそが、脱構築という営為が生まれる場所であり、逆にいえば正義という彼方がある限りにおいて法をより良いものへと変えていく努力は無限に継続し得るのである。
以上のように、デリダの正義論では法は常に歴史的・相対的なものとして変更可能だが、正義そのものは一種の絶対的な他者性として我々を超越している。このとき重要となるのが「他者」の概念である。デリダによれば、正義の問題は他者の問題に他ならず、正義とは究極的に「法の外部に置かれた他者」との関係において語られるべきものだ 。というのも、法は社会に秩序を与える有効性ゆえに境界を画定し、その境界からはみ出す他者をしばしば排除してしまう力を帯びている。その排除された外部の他者こそが正義への呼びかけを発しつづける存在であり、法の内部からは測りきれない異質な声として現れる。この「法に包摂されない他者の呼び声」こそ、正義が要請される根拠であるとデリダは考える。脱構築的思考とは、その呼び声に応答して法を問い直す不断の試みであり、デリダはそれを指して「脱構築それ自体が正義である」とすら述べた(「正義の来臨への絶えざる開放」)。以上の理論背景を踏まえ、次章から『虎に翼』の物語を検討していこう。
3. 『虎に翼』の構造分析:動的トポスとしての物語
『虎に翼』は1930年代の戦前から1970年代に至るまで、日本社会の激動期を背景に主人公・猪爪寅子(いのつめともこ、通称:とらちゃん)の人生を描いている。物語は昭和初期の東京から始まり、戦中・戦後の混乱期、地方(新潟)への赴任、そして再び戦後東京へと、時間と空間の舞台をダイナミックに移行させながら進行する。このように物語のトポス(場)は静的ではなく、歴史の推移と共に絶えず変化し続ける。そのダイナミズム(動的トポス)こそが、本作のテーマを浮き彫りにする重要な構造要素となっている。
まず序盤、舞台は旧来の価値観が色濃く残る戦前の東京である。女性は高等教育や専門職に就くことが極めて困難な時代に、寅子は母や恩師の支えを受けながら法科大学の女子部に進学する。しかし当時はまだ「女性に弁護士資格を与える法改正」が行われておらず、女子学生たちはそもそも資格試験を受ける権利すら不確かな状況だった。物語前半の重要な軸は、この「法(制度)そのものの不備」とそれに挑む若い女性たちの奮闘である。例えば寅子たち女子部の学生は、男子学生や世間からの嘲笑・差別に晒されながらも、法廷劇を上演して女性法曹の必要性を訴えるなど、自分たちの存在を認めさせようと奮起する。ここでは、既存の法制度に含まれなかった者(女性)の声を可視化し、制度の側を変えていくという、本作全体を通じての大きなテーマが提示されている。
物語の中盤に入ると、舞台は一転して法廷劇そのものへと移る。寅子の父・直言が巻き込まれた汚職疑惑事件(劇中では「共亜事件」)の裁判が物語のクライマックスとして描かれる。寅子は恩師の穂高重親らと協力して父の無実を証明すべく奔走し、保守的な裁判官桂場等一郎のもとで開かれた公判で、最終的に16人の被告全員が無罪判決を勝ち取る。この裁判劇については第5章で詳述するが、個人の運命を左右する法廷という空間が、本作では物語構造の芯として据えられている。すなわち、中盤の裁判シーンはそれまでの努力(女性が法曹界に入るまでの道程)の一つの結実であり、同時に後半へ向けた主人公の意識変容(「法とは何か」「正義とは何か」への目覚め)を促す転換点となっている。
終盤、物語は戦後の新しい法制度の確立期へと移行する。第二次世界大戦後、日本国憲法の公布によって男女平等や基本的人権が謳われ、新たに家庭裁判所が設置されるなど法体系の大改革が行われた。寅子は戦後いち早く司法官僚として民法改正作業に関わり、その後、女性初の判事として各地の家庭裁判所を立ち上げる任務に就く 。物語第16週以降の「新潟編」では、寅子が地方都市で家庭裁判所の創設に奮闘し、戦災孤児や家庭内問題など、それまで法の光が当たらなかった人々の救済に乗り出す様子が描かれる。さらに「ふたたびの東京編」(最終週付近)では、原爆症をめぐる国家賠償裁判(戦争責任の問題)や、性的マイノリティの権利問題なども物語に盛り込まれた。このように、『虎に翼』は主人公個人のキャリア物語であると同時に、各時代における社会正義の課題を次々に取り上げる群像劇・社会劇の様相を持つ。物語のトポスがダイナミックに変遷するごとに、その場における法と正義の新たな局面が提示される構造になっているのである。
以上の構造分析から見えてくるのは、本作が「歴史という舞台に投げ込まれた法と正義の相克」を一貫したテーマとしている点である。女性の法曹進出、冤罪事件の克服、戦後改革による新制度、人権意識の拡大――こうしたトピックはいずれも、法の枠組みを超えて正義を求める人々の声が社会を動かしてきた歴史そのものと言えるだろう。では、この物語において「語られなかった者たち」すなわち法の陰に隠れた存在たちの声はどのように表現されているのか、次章で詳しく見てみたい。
4. 語られなかった者たちの震え:法を超えて呼びかけるもの
『虎に翼』には、主人公・寅子の物語の陰で、「十分に語られなかった者たち」の存在が感じられる。それは、物語の表舞台に直接姿を現すことは少ないが、その沈黙や震え(抑圧された感情のほとばしり)によって間接的に訴えかけてくる人々である。デリダの言う「法外の他者」 になぞらえれば、彼らこそ法の網目から零れ落ち、しかし正義の要請として我々に呼びかける存在である。
代表的な例の一つが、寅子の学生時代の友人である山田よねの物語である。よねは容姿や境遇を理由に周囲から偏見を受けて育った女性で、寅子とともに法曹を志した才気ある人物だった。しかし高等試験の口述試験の場で、試験官から彼女の容姿を侮辱されると、それに毅然と抗議したために不合格とされてしまう。また、他の女子学生たちも家族事情や社会的圧力で次々と夢を断念せざるを得なくなり、結局戦前に司法の門をくぐれた女性は寅子を含めごく僅かだった。よねをはじめ「語られなかった者たち」とは、歴史の公式記録には名前を残さなくとも、法の不正や不平等によって夢を奪われ、涙をのんだ無数の人々のことである。彼女たちの悔しさや無念さは劇中で詳細に描かれはしないが、その沈黙の裏にある震え――不当な扱いに対する怒りや嘆きの感情――は、視聴者に強い余韻を残す。寅子たちが勝ち取った勝利の陰で、語られなかった者たちの存在が物語に深みと陰影を与えていることは見落としてはならない。
さらに本作は、当時の社会では公に語られることのなかったマイノリティの姿を巧みに織り込んでいる点でも注目に値する。例えば、轟は、自身の同性パートナーを紹介し、朝ドラ史上初めてと言われる男性同士のカップルの登場シーンが描かれた。また、二つの名前のあいだで、自己のアイデンティティに揺れる崔香淑/汐見香子の物語も、サイドストーリーとは思えないほどの重みがあった。
これらの描写は、現代の視点から見れば意識的なインクルージョン(包括)と言えるが、物語の時代設定上ではまさに「語られなかった者たち」に光を当てたものだ。SOGIや民族の問題は、当時は公には議論されることはなかった。しかし本作はそうした歴史の周縁にいた人々をあえて登場させ、「彼ら/彼女らも確かにあの時代を生きていた」という事実を示すことで、法の物語の背後に無数の匿名の人生があったことを静かに告げている。
デリダの議論に立ち返れば、法は境界を画し規範から外れる者を「法外なもの」として排除する傾向を持つが、正義とはむしろその境界の外からの呼びかけにこそ宿るものだった。この視点で『虎に翼』を見直すとき、よねやマイノリティの登場人物たち、そして劇中直接描かれない多くの「名もなき人々」の存在が、単なる脇役以上の意味を帯びて浮かび上がる。
彼/彼女らの沈黙の「震え」こそが、法という公的言語に翻訳されなかった正義の声であり、主人公寅子の闘いを水面下で支える倫理的な土壌となっている。実際、寅子はよねから差別の現実を学び、彼女の無念を知ることで「弱者に寄り添う」ことの大切さを痛感する描写があった。また戦後、寅子が戦災孤児の世話に奔走する姿は、家族も戸籍も持たない子どもたちという当時の法制度から零れ落ちた存在へ手を差し伸べるものであった。このように物語の表層に描かれない「他者」の存在が、作中人物の倫理的行動を突き動かし、正義を求めるエネルギーの源泉となっていると言えるだろう。
まとめると、『虎に翼』における「語られなかった者たちの震え」とは、歴史と社会の狭間で押し殺された声なき声であり、それは同時に法の彼方から正義を問い質す呼びかけでもある。それは劇中で明示的に語られないがゆえにこそ、深い余韻となって視聴者に届き、物語世界に厚みを与えている。この震えに感受性を持つこと――すなわち他者の痛みに想像力を働かせることこそ、正義への第一歩である。デリダの言う「他者からの呼びかけに応答する責任」を、視聴者は知らず知らず本作を通じて経験しているのではないだろうか。
5. 桂場の判決と構造の芯の震え
『虎に翼』の物語構造の芯を震わせた象徴的な場面として、第5週に描かれた「共亜事件」の判決シーンが挙げられる。これは劇中でも白眉と言えるクライマックスであり、本稿のテーマである「法と正義の相克」が凝縮された瞬間である。
共亜事件は昭和11年(1936年)に起きた汚職容疑事件で、寅子の父・猪爪直言を含む16名が起訴された冤罪事件である(モデルとなった史実は昭和初期最大の汚職事件「帝人事件」。物語の中で寅子たちは、予審で強要された自白や検察の杜撰な証拠に疑念を抱き、奔走して無実を立証する証拠を集める。裁判長を務めたのは寅子の恩師でもある穂高とは思想的に対極にある保守的な裁判官・桂場等一郎であったが、桂場は最終的に公正な判断を下す。昭和11年12月、長い公判の末に言い渡された判決文には次のような一節が含まれていた。
「検察側が提示する証拠は、自白を含めどれも信憑性に乏しく、本件において検察側が主張するままに事件の背景を組み立てんとしたことは、『あたかも水中に月影を掬いあげようとするかのごとし』。すなわち、本件判決は証拠不十分によるものではなく、犯罪の事実そのものが存在しないと認めるものである」
桂場裁判官が自ら執筆したこの判決文は、共亜事件の筋書きそのものが虚構であり冤罪であったことを明確に断じたものであった。判決言い渡し後、傍聴していた穂高はその文章の見事さに気づき、「名判決文だった」と桂場を讃える。普段は女性蔑視的で頑迷な桂場が、この場面では一転して毅然とした正義の代弁者となったことに、多くの視聴者が胸のすく思いを抱いたに違いない。劇中の登場人物である穂高や寅子だけでなく、視聴者もまた「権力に屈せず真実を貫いた判事の勇気」に拍手を送りたくなるシーンであった。
では、この判決が「構造の芯」をいかに震わせたのかを考えてみよう。まず物語構造上、この判決は寅子の人生と価値観に決定的な影響を与える転機となっている。父の無実が証明されたことで寅子の家族は救われ、同時に寅子自身も「法律とは人を守るものだ」という確信を新たにする。桂場から「裁判官になりたいのか?」と問われた寅子は、この経験を機に将来裁判官となる道を志向し始める 。つまり、この判決は主人公の内面的成長と物語の方向性を決定づける震源地だった。また、一連の裁判劇を通じて寅子は法の力だけでなく限界も知ることになる。無罪を勝ち取ったとはいえ、父や家族が味わった社会的制裁や苦しみは決して完全に癒えるものではなかった。正義が法廷で実現しても、失われた時間や名誉の傷は元通りにはならないという現実は、物語にほろ苦い深みを与えている。
さらにこの判決シーンは、劇世界の社会構造=法制度そのものを震撼させる出来事として描かれている。無罪判決により冤罪が暴かれたことで、検察や政界の不正が明るみに出たが、劇中でも示唆されるように当局は真相の追及をうやむやにしようとする。史実の帝人事件でも、当時の司法大臣が「事件は半ば真実で半ば架空であると思う」と発言し、「このような争いは速やかに終わらせるのが国家と司法省のためだ」とコメントしたと伝えられる。この発言は無罪となった被告たちを深く傷つけたという。つまり、権力側は自らの威信を守るため、無罪という結果すらも都合よく過小評価しようとしたのである。ここに法の構造的な矛盾が露呈する。
すなわち、法は本来正義を実現するための制度であるはずが、その運用が権力に左右されてしまうとき、正義がねじ曲げられ法そのものの正当性が揺らぐという矛盾である。桂場の下した判決は、その矛盾を一時的に正したかに見えたが、同時に法制度の根幹に潜む問題(司法と政治権力の癒着や、法の支配の脆弱さ)をも浮き彫りにした。判決の震えは、物語世界の権力構造全体を揺るがせたのである。
デリダの思想になぞらえるなら、この場面は「法の脱構築」が劇的に起こった瞬間とも解釈できる。すなわち、検察と政府が作り上げた虚構のストーリー(不当な法の運用)を、裁判官が論理と言葉(判決文)の力で解体し、法を正義に近づけた瞬間である。判決文中の比喩「あたかも水中に月影を掬いあげようとするかのごとし」という詩的表現は、まさに「存在しないものをあるかのように掴み取ろうとする虚しさ」を言い表し、検察の物語を見事に解体した。デリダは法のテクストもまた解釈可能性やレトリックを内包するもので、権威の根拠は実は「神秘的(mystical)」で恣意的だと指摘したが(法の力の「権威の神秘的基礎」)、桂場の判決はその神秘のヴェールを剥ぎ取り、法言語の力で真実を浮かび上がらせたように見える。
もっとも、デリダが強調するように正義は常に未完の課題として残り続ける 。桂場の勇気ある判決にもかかわらず、直言たちが味わった苦しみは完全に償われたわけではなく、またこの判決によってただちに日本の司法制度が浄化されたわけでもない。
正義の実現には常にコストとリスクが伴い、その完遂は難しい。だが重要なのは、この判決が物語の核心に「正義とは何か?」という震えを刻みつけた点である。寅子のみならず視聴者もまた、この場面を通じて法と正義の緊張関係を肌で感じ取ったはずだ。それまで抽象的だった「正義」という観念が、目の前の人間の苦しみやそれを救おうとする行為として具体的な輪郭を帯び、我々の心を揺さぶったのである。
要するに、桂場の名判決は『虎に翼』という物語装置の芯に震動を与え、作品全体に正義のテーマを響かせる決定打となった。法の条文や制度だけでは救えないものを救おうとする行為、すなわち「法を超えて正義を実現しようとする試み」が劇的に結実した瞬間であり、それゆえに物語世界の構造そのものを揺るがすインパクトを持ったのである。
6. デリダ的読解:『虎に翼』は正義の寓話であるか?
以上の分析を踏まえ、『虎に翼』という作品をデリダの正義論になぞらえて再解釈してみよう。果たして本作は「正義の寓話」として読むことができるだろうか。結論から言えば、本作は歴史ドラマであると同時に、法と正義の本質を描き出した一種の寓話(アレゴリー)として鑑賞することができる。その理由をいくつかの観点から示そう。
第一に、主要な登場人物や出来事が、法と正義の対比を象徴的に体現している点が挙げられる。主人公の寅子は、未熟ながらもひたむきに正義を求める人間の姿そのものだ。彼女は弱き人々の声に耳を傾け、現行のルールに不備があればそれを変えようと奔走する。寅子の口癖とも言える「法律は人を守るためにある」という信念は、法の手段性と正義という目的とを端的に示す言葉であり、彼女自身が正義への飽くなき希求(=法の脱構築を促す原動力)を体現している。
これに対して桂場等一郎は、当初は因習的な価値観に囚われた旧来的な「法」の権化として振る舞う。女性に法曹は無理だと決めつけ、融通の利かない態度を貫く桂場は、言わば硬直化した法(=脱構築を拒む法)のメタファーであった。しかし彼自身、共亜事件の判決においては真実に心を動かされ正義の側に立つ決断をする。この変化は、法の担い手である人間が内在的に正義の声に触れる可能性を示している。穂高重親教授は進歩的・理想主義的な法学者であり、常に女性の権利拡張や社会改革を説いて寅子を励ますが、のちにその父権主義的な部分も顕にする。彼は法の中に正義を呼び込もうとする知性とその限界の象徴と言えるだろう。その他、花岡は公正な人物として描かれ、轟やよねといった友人たちは社会の偏見に傷つきながらも懸命に生きる姿で正義の重みを示す。これらキャラクターの配置は、それぞれが法と正義の関係における一側面を担った寓意的人物と解釈できる。
第二に、物語の展開そのものが「法は変わりうるが、正義の理想は常に先にある」ことを描いている。前述のように、劇中では女性の法曹資格解禁、冤罪の是正、戦後の司法改革など、法制度の変革が次々と起こる。これらはまさに「法は脱構築できる」ことの実例である。当初存在しなかった女性法曹という地位が作り出され、無実の人々を救うために判例が積み重なり、家族や子どもの福祉を守るために新たな裁判所が設立される。法は固定不変ではなく、正義という理想に一歩でも近づくために姿を変えていく。
その一方で、正義そのものは常に未完であり続ける。例えば寅子が新人弁護士になり初めて担当した親権争いの事件では、依頼者である母親の嘘を見抜けず苦い失敗を味わうエピソードがある(彼女はこの教訓から「自分の未熟さ」を悟り、より研鑽を積むことになる)。また、戦後に担当した被爆者訴訟では、国家を相手に正義を問う困難さに直面する。寅子自身、「寅子だけが正しいわけではないし、寅子も間違えることがある」と語り、万能のヒロインではなく試行錯誤する一人の人間として描かれる。
これは、正義の実現が決して単純ではなく、常に新たな問いと応答を必要とするプロセスであることを示唆している。正義はゴールの決まった一本道ではなく、応答し続けなければならない無限の呼びかけなのだというメッセージがここに読み取れる。デリダの表現を借りれば、「正義とは常に来たらざるもの、経験し得ない不可能なものへの応答である」がゆえに、それを追い求める営み(脱構築)は終わりがない。寅子の物語もまた、彼女が様々な失敗や葛藤を経てもなお歩みを止めず、「法の下の平等」という憲法の条文に励まされて法曹の道を進む。この姿は、正義という理想に向かって不断に歩み続ける態度そのものを象徴している。
第三に、作品全体のタイトル『虎に翼』自体が寓意的だ。ことわざ「虎に翼」は「強いものがさらに力を得ること」を意味するが、本作では複数の読み方ができよう。主人公の名前「寅子」は寅=虎に通じる。彼女が得た「翼」とは何だったのか。それは法律の知識であり仲間の支えであり、ひいては時代の変化そのものだったのではないだろうか。強い意思と才気を持ちながら、女性であるがゆえに抑えつけられていた寅子という虎が、周囲の助力や学びという翼を得て大空に飛翔する――それが表層的な物語だとすれば、その飛翔の目的地にあったものこそ「正義」だったと言える。
寅子は自らの野心のためでなく、弱き人々の声を届けるために飛ぶ。彼女の戦いの数々(旧来の権威との闘争、差別との闘争、無理解との闘争)は、すべて正義という見えざる旗を掲げたものだった。ドラマ後半で寅子が赴任する家庭裁判所は、人々から「お母さんの裁判所」と親しみを込めて呼ばれる。それは、従来の硬直的な司法システムとは異なる、人情や思いやりをも包含した新しい法の姿を象徴している。寅子が目指したのは、まさに正義が息づく法、あるいは正義へ向かって開かれた法だった。
以上の点から、『虎に翼』は史実に基づくドラマでありながら、デリダの正義論を体現するような寓話的構造を持つと評価できる。無論、製作者がデリダを意識して脚本を書いたわけではないだろう。しかし優れた物語はしばしば哲学的な普遍性を備えるものだ。本作が多くの人の心を打ったのは、単に一人の女性のサクセスストーリーだからではなく、その背後に「法の限界を超えて正義を求める」という人類普遍のドラマがあったからではないだろうか。
デリダの理論に照らすことで、その普遍性が一層浮かび上がってくる。すなわち、『虎に翼』は、法制度の中で闘う人々の姿を通じて「正義とは常に制度の彼方からやって来て私たちに問いを投げかけるものだ」というメッセージを伝えている。登場人物たちの葛藤や成長は、そのまま視聴者への問いとなる。「もしあなたが寅子だったら? よねだったら? 桂場だったら?」と。そして視聴者は自問するのだ――正義の呼びかけに自分ならどう応えるだろうか、と。
7. 結論:呼びかけにどう応答するか
朝ドラ『虎に翼』とデリダの正義論の接続を試みてきた本稿も、締めくくりにあたり改めて現実の私たち自身の問題へと話を戻したい。物語を見終えたとき、視聴者の胸には様々な感情や問いが去来したことだろう。爽快感、感動、怒り、そして「では自分は何ができるのか?」という思い――それらは正に正義の呼びかけに対する応答を促す感情であったように思われる。
デリダは「応答可能性(responsibility)」という言葉で、他者からの呼びかけに応答する責任を語っている。正義とは抽象的な理念ではなく、具体的な他者の声に応答しようとする態度においてこそ実現されるからだ。寅子は様々な試練を経てなお「人々の幸せのために法がある」ことを信じ続け、新しい時代に希望を託して物語を閉じる。これは視聴者への大きな呼びかけでもある。すなわち、「あなたの周りにある不正や差別、声なき声にどう向き合いますか?」「正義を求める呼びかけに、あなたはどう応答しますか?」という問いかけである。
本稿の考察から浮かび上げたように、法は決して完璧ではなく、常に改善と問い直しの余地がある。そして正義は、一人ひとりが他者の訴えに耳を傾け、その都度具体的に実現していくしかないものである。『虎に翼』の物語が感動を呼んだのは、フィクションを超えて我々自身の現実課題を暗示していたからだろう。例えば職場や社会でのジェンダー平等、冤罪や権力腐敗の問題、マイノリティの権利擁護など、現代においても法と正義の隔たりは様々な形で存在する。我々視聴者は、寅子たちの物語に自らを重ね合わせ、それぞれの立場で正義の呼び声にどう応答すべきかを考える契機を得たのではないか。
デリダは「すべての他者はまったき他者である」と述べ、他者の他者性に開かれた肯定的な応答こそが正義への道だと示唆した。ドラマの中で寅子や桂場が示したように、正義の呼びかけに応答することは決して容易ではない。時にそれは自らの身を危うくし、慣習に反し、孤立を招く勇気を要する行為だ。それでもなお、応答する者がいる限り、法はより良いものへと変わり得るし、社会は前進する。『虎に翼』はその希望を示してくれた。強い虎に翼が生えたように、正義の理念が人々の行為という翼を得て飛翔するとき、世界は少しずつ変わっていく。
最後に、デリダの言葉を換借して締めくくりたい。正義とは常に「来たるべきもの」として私たちを試し続ける。他者の震える呼び声に気づいたとき、それに応答することを恐れてはならない。『虎に翼』で示されたように、正義の物語は特別な誰かのものではなく、呼びかけに応答しようとするすべての人に開かれている。私たち自身がそれぞれの場所でこの呼びかけに向き合い、応答する勇気を持つとき、きっと新たな「翼」が生えるだろう。それこそが、本作が残したメッセージであり、デリダの哲学が示唆する未来への希望でもある。
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