牧凌太のまなざしが、その距離をゼロにする【おっさんずラブ】

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君の名は牧凌太

私には、牧凌太のことしか考えられなかった時期がある。

牧凌太は、2018年にテレビ朝日で放送された連続ドラマ、『おっさんずラブ』(Ossan’s Love、以降『OL』と略す)の登場人物。牧を演じたのは、若手実力派俳優の林遣都

牧凌太は、主人公・春田創一の後輩として、吉田鋼太郎が演じる黒澤武蔵と、壮絶な恋愛バトルを繰り広げる。成績優秀、見た目はイケメン、だが、その性格は、ドS

OLに夢中になった私の心は、牧凌太に、完全に掌握された。

ドラマの放送終了後に開催された「おっさんずラブ展」で、牧の名刺ステッカーを幸運にも入手した際は、思わず叫び声を上げそうになった(アラフォーのゲイが一人で観覧していたので、さすがに我慢したけれど)。

そして、新宿伊勢丹で、牧が着ていたような暖色のスウェットを発見すれば、「ここに牧がいる!!」と涙目になり、ショップのスタッフには、天空不動産のボールペンを無償で配布。

周囲の人々は皆、口には出さなかったが、絶対に困惑していたと思う。

心の暗がり

牧凌太について文章を書こうとすると、どうしてもキーボードを打つ指が止まる。牧のことを考え出すと、自分自身の深い部分を晒さずにはいられない。私は、牧に対して、いつまでも客観的になれない。

ライターの横川良明さんが書いた、牧凌太に見る「自分を大切にするということ」という記事は、牧凌太に関する最高の文章だ。OL最終回前の揺れる感情の中で、牧の魅力が見事に表現し尽くされている。

「きっと僕は牧の隠しきれない心の暗がりに、どうしようもなくシンパシーを覚えているのだと思う。」

この言葉に、私は何度も深く頷く。今の私には、これを超える文章は絶対に書けない。

心の距離

私は過去に、ツイッターのアンケート機能を使用して、OL民(OLの熱心なファンをこう呼ぶ)に、以下の質問をしたことがある。

「OLという物語を通じて、私は春田創一と牧凌太、どちらの心情に同化していたのだろうか?」

別の記事(「春田創一の語りは信頼できるのか?」春田M/N物語論【おっさんずラブ】)で詳述したように、OLは、春田創一の「語り」によって、物語が進行する。

OLでは、全編を通じて、春田のモノローグが挿入され、視聴者は、春田の心の声を聞くことができる。物語論では、登場人物の内面を直接描写することを、「内的焦点化」と呼ぶ。

それに対し、牧については一貫して、「外的焦点化」が用いられている。牧の内面がモノローグで語られることはない。視聴者は、牧が実際に口にした台詞や、表情、身振りから、その心情を推察することしかできない。

普通に考えれば、「心の声」を聞くことができる、春田の心情に同化するほうが容易なように思える。しかし、上記のアンケートに対する結果は、春田創一が17%、牧凌太が83%だった(総回答数は203票)。

だが、この結果を見て、私は逆に納得していた。ある作品に深く嵌まり込むことを俗に「沼に落ちる」と表現するが、OLの沼に落ちるかどうかの境界線は、牧凌太への心の距離にあるように思う。

なぜ、OLを視聴した多くの人々が、牧凌太の心情に同化したのか。

この問いに対して、断片的にではあるが、私の考えを述べてみたい。

解釈の共同体

まず、牧凌太に対する外的焦点化が成功した背景には、OLに漫画や小説のような「原作」が存在しないという事実がある(『BE・LOVE』で連載中の漫画は、放送終了後に発表されたコミカライズ版)。

漫画や小説は、登場人物の内面を焦点化し、描写する。たとえば、ドラマ化して大ヒットした『逃げるは恥だが役に立つ』も、みくりと平匡の内面は、モノローグにより語られる。読者/視聴者は、「神の視点」から二人の心情を知ることができる。

それに対して、オリジナル作品のOLで、私たちは、牧の内面について「答え合わせ」をすることができない。それが、ツイッターを始めとするSNSで「解釈の共同体」を生み出す原動力となる。

ゆえに、人気の漫画や小説を原作とした映像作品を創り上げて、OLを表層的に模倣したとしても、それは必然的に成功しない。

「傍観者」の沈黙

春田創一を演じた田中圭は、6話の副音声で、牧凌太の「絶対見ちゃう率100%」について、触れている。この発言は「傍観者」としての牧凌太の本質を、的確に指し示している。

4話。「わんだほう」乗っ取り事件で、荒井ちずが、春田家に一時的に身を寄せた場面。ここで牧は、リビングにいる春田とちずの会話を、廊下で立ち聞きする。春田は「わんだほう」の閉店パーティーで目撃した場面を思い出し、ちずに、「牧さ……武川さんと、手繋いでた」と告げる。

実際には、牧は武川政宗と「手を繋いでいた」訳ではない。牧は、手を握ろうとする政宗に抵抗していた。だが、同時に、牧は政宗の側から離れることもなかった。過去の恋人に対して、拒絶と受容の狭間で揺れる自身の姿を、春田に見られていた。

林遣都はここで、牧の複雑な心理を、一切の台詞なしで表現する。僅かに俯く顔。その視線の方向性だけで、映像に意味を与えている。ただ黙って、自分の部屋に戻る後ろ姿から、痛い程の切なさが伝わる。

その後、牧は、自身の機転から、事件を無事に解決する。しかし、春田とちずが携帯電話越しに会話する場面で、画面は分断される。ちずの声は、牧には聞こえない。牧は、ただ春田の傍らで、その時間が過ぎ去るのを待つことしかできない。

この光景は、何度も繰り返される。

ドラマを観る視聴者は、画面を通じて、登場人物の会話を常に立ち聞きしている。それと同様に、牧はいつも外側から、春田と周囲の人間との関係を、傍観している。

牧は何も言葉を発さない。だが、その表情はいつも「何か」を語っている。

境界を越える

春田家のダイニングテーブルは、作品中では、主観と客観を結ぶ、想像上の境界=イマジナリーラインとして機能している。

OLの前半では、春田創一は右側=主観の位置に、牧凌太は左側=客観の位置に座している。これは「左客右主」と呼ばれる、映像の原則に基づいている。

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だが、4話の後半で初めて、この配置が逆になり、物語の視点が転換する萌芽が描かれた。

そして、6話。政宗の訪問への動揺を隠せない牧が、春田へ衝動的なキスをする。

ここで、春田の心情を代理するように映像が激しく揺れる。二人のぎこちない会話が進む中、視点はダイニングテーブルの周りを緩やかに回転し、遂に、想像上の境界を越える

視聴者の心はいつの間にか、牧凌太に支配される。

中性のまなざし

6話は、林遣都の役者としての天才性が遺憾なく発揮されている。この回では、自ら能動的に動き出した牧が、政宗やちず、そして春田の母との関わりの中で、孤独に、苦悩を抱えてゆく。

普通の役者であれば、クロースアップ・ショットで、顔を大袈裟に顰めたりするかもしれない。だが、林遣都は、牧凌太の経験をただ「中性のまなざし」で受け止める。その表情には、深い哀しみも、激しい怒りも帯びることがない。

その徹底した受動性が、映像をただ「観ることしかできない」視聴者との心理の同一化を生み出す。

牧凌太は、言葉で語らない。それにもかかわらず/それゆえに、視聴者は、牧に自らを重ね合わせることができる。一切の台詞がないことが、私たちと牧との距離をゼロにする

(「中性のまなざし」が生む効果については、『「いつのまにか」の描き方: 映画技法の構造分析』が詳しい)

二人の対話

言葉は、つねにすでに「誰か」のものだ。

2話で牧凌太が発した台詞、「部長に、春田さんは守れません」「何もかも違うのに、一緒に暮らすなんて無理です」は、どちらも、武川政宗が影を落としている。

内面は、言葉で語ろうとすればするほど、どこかへと離れていく。けれども同時に、私たちは、言葉を通じて、「誰か」と生きてゆく。

誰にも届かない独白の世界から牧を救い出したのは、春田だった。

7話。「俺といたら、春田さんは幸せになれませんよ」と告げた牧に、春田はこう叫ぶ。

「だからさ!お前はいつもさぁ、そうやって勝手に決めんなよ!!」

田中圭は、この部分で、脚本にはない、「いつもさぁ」という言葉を付け加えている。これは、春田創一として、牧凌太の本質を理解できていなければ、決して生まれないアドリブだ。

春田からのプロポーズを受けた後、林遣都は、脚本にあった他の台詞を発さず、ただ牧凌太として「ただいま」とだけ呟いた。

この二人には、「ただいま」「おかえり」という台詞=対話(dialogue)以外に、言葉は要らなかった。

牧凌太は実在する

林遣都は、OLへの出演後、飛躍的に活動の場を広げた。けれども、他の人物を演じる彼の姿に、牧凌太の面影はない。

私は、「牧凌太は実在する」と思う。何を突飛なことを言っているのだと、冷笑されるかもしれない。

しかし、『おっさんずラブ』が提示した世界に、牧凌太は確かに居る。そうとしか思えない。

私は、また彼に会える日を、ずっと待っている。







2 件のコメント

  • 私は、女性で、夫も子供もいるけど、牧凌太の心情は林遣都様の演技で伝わってきて、完全に感情移入し過ぎて、号泣しました。
    あの演技力は凄すぎると思っていましたが、
    その他のいろんな分析もされたのですね。
    あのドラマでは、光の使い方も、牧凌太への感情移入に関わってきていると思います。
    私は、牧凌太くんに恋してるというか、役者林遣都に恋してます。個人的には、10年前に「ちーちゃんは悠久の向こう」の作品のときも感情移入して、号泣しました。そのときも私は、女性なのに、林遣都様に感情移入してしまうのです。彼の魅力には、逆らえないのです。

  • ハルミさん
    コメントありがとうございます。光の使い方。そうですね。スタッフインタビューなどで、照明班が相当なこだわりを持っていたと書かれていました。林遣都さんは、一言で言えば天才だと思います。矛盾しているかもしれませんが、林遣都さんがいるから、私は牧凌太に今、会えないのかもしれません。

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