ぐるぐるして戻らない
小さな光が円環の縁をゆっくりと回っている。行き先を知らぬまま、同じ景色を何度も横切るようでいて、決して同じ点には戻らない。記憶の断片が浮かんでは消え、螺旋状に時間の深みへ沈降し、また浮上する。意味の欠片たちが軌道を描きながら互いにすれ違い、中心のない環を巡っている。その軌跡は円のようでいて閉じておらず、線のようでいて果てがない。ぐるぐるして戻らない——そんな不思議な時間の流れと記憶の構造が、ここに描かれようとしている。
はじめに
私たちの記憶や意味の捉え方、そして詩的時間の感覚は、しばしば線的な時間や単純な循環では説明しきれない複雑さを帯びている。時間は一方向に進むが、記憶は過去へ遡り、物語は円環のように反復しつつも同じ所へは戻らない。本論では、そのような「ぐるぐるして戻らない」構造を幾何学的に捉える試みとして、トーラス(Torus)、螺旋(Spiral)、楕円曲線(Elliptic Curve)という三つの幾何学的対象をモデルとして導入する。それによって、記憶と意味、そして詩的な時間性の構造を明らかにしようとする。
トーラスはドーナツ状の環面であり、円周同士の直積で表される閉じた曲面である。一方、螺旋は中心の周りを巡りながら遠ざかっていく開いた曲線であり、繰り返しと進行の両方の性質を併せ持つ。楕円曲線は数学における種数1の代数曲線で、位相的にはトーラスに等価な閉じた構造を持ちながら、内部に無限の巡回的構造を秘めた対象である。
これらの図像や構造を比喩として用いることで、時間や記憶がいかに循環と非循環のパラドクスを包含しているかをモデル化できるだろう。本論ではまずトーラス、螺旋、楕円曲線それぞれの特性を概観し、それらが記憶と意味の空間において果たす役割を考察する。最後に、それらを統合する「意味空間」のビジョンを示し、結論とする。
トーラス──二重の循環と記憶の位相

図1: トーラス(環面)は2つの独立した円周方向を持つ(二重の周期性)。この図では異なる色の円でトーラス上の異なる循環経路を示している。
トーラスは円(S^1)の直積として記述される位相空間であり、S^1 × S^1で表される。それは「時間の輪」を二重に組み合わせたような構造で、一重の円環では表せない複雑な循環性を持つ。日常的な比喩で言えば、トーラスはドーナツや浮き輪の表面のようなものだ。そこでは「縦方向の環」と「横方向の環」という二つの環状経路が存在し、どちらに沿っても延々と回り続けることができる。
トーラス構造の興味深い点は、一見すると閉じた有限の面でありながら、その表面上の経路次第では無限に新たな場所を通るという性質である。例えば、トーラス上で赤道方向と子午線方向に沿って進む割合が無理数比(互いに無関係な周期)である経路をとると、軌跡は無限にトーラス面を埋め尽くすように巡り、決して初期位置に正確には戻らない※【註1】。すなわち「永遠にぐるぐる回り続けるが二度と同じ所には戻らない」軌跡が可能なのである。
この性質は、記憶の作用や意味生成のプロセスに示唆を与える。私たちの思考が同じ記憶を反芻しているように見えても、文脈というもう一つの方向(軸)が変化していれば、それは決して同じ記憶にはならない。古い記憶が新たな視点の下で呼び覚まされるたびに、記憶の内容は微妙に書き換えられ、出発点とは異なる地点に着地する。トーラス上の軌跡に沿って記憶が更新されていくイメージである。
もう一つ、トーラスに関連して着目したい概念に内部と外部の逆転がある。フランスの精神分析家ジャック・ラカンは、主題(主体)の構造を説明するためにトーラスなどの幾何学的図形を活用した。ラカンによれば、トーラスは「その外部表面と内部表面とが一つの領域を成している」ことを示す図形であり、主体の内面と外界の区別が曖昧になる様相、すなわち「外密(extimité)」を象徴しているという。
トーラスの中心の穴は単なる空洞ではなく、外側と地続きの領域である。この性質は、記憶における「私的な内面の記憶」と「共有された外界の事実」が溶け合う様や、意味における「テキスト内部の意味」と「読者の解釈」との循環的相互作用を思わせる。主体や意味はトーラス的構造を持ち、自らの中心を自分の外部に持っている、と言い換えてもよい。記憶もまた、自分の経験の核が常に外部から照らし出され、他者や環境との関係の中で形成される。トーラスという二重環構造は、そうした関係性としての記憶、および循環しつつ常にずれていく自己認識のプロセスを几帳面にモデル化してくれる。
さらに、トーラス構造は空間だけでなく時間のモデルとしても使える。複数の異なる周期をもつ時間の重ね合わせはトーラス状の時間モデルを生む。例えば人間の生活時間には、日周期(24時間)や年周期(季節)などいくつかの循環が重畳して存在する。これらを二次元的に組み合わせると、時間の位相空間はトーラスとして表現できる。ある年の同じ日付・同じ時刻に太陽と月が同じ配置になるには、暦の周期と月の満ち欠け周期という二つの円周を一巡しなければならず、それは巨大なトーラス上の一点に対応する。
しばしば「歴史は繰り返す」と言われるが、その繰り返しは決して完全な円ではなく、何らかのずれを伴っている。トーラス時間モデルでは、歴史上の出来事も二つ(以上)の時間円環に跨って位置づけられ、一度起きた出来事が再度起きる時には前とは異なる角度(異なる文脈座標)にいることになる。この繰り返しと差異の同時性こそ、記憶や歴史の特徴である。
興味深いことに、最近の神経科学の研究でもトーラス構造が登場している。脳内で空間認識を司るグリッド細胞の活動は位相空間上で解析するとトーラス状の幾何学を呈することが報告されている。動物が環境内を動き回るとき、グリッド細胞群の活動パターンが二次元のトーラス状多様体を形成しうるという。
この発見は、脳が内的に「地図」をトーラス位相で符号化している可能性を示唆している。すなわち、空間の記憶は脳内で一種のトーラスとして実装され、どれだけ歩き回っても同じ内部状態には戻らない(が近似はする)という性質を持つらしい。この事実は、我々の議論する比喩と奇妙に響き合っている。脳が物理空間をトーラスで表現するなら、私たちが心の内に持つ意味空間・記憶空間もまた、トーラス的構造を帯びているかもしれない。
以上のように、トーラスは二重の循環と内外の一体化という特徴をもつ構造として、記憶と意味のモデル化に寄与する。記憶は同じ場所をめぐっているようで実は少しずつ文脈が変容し、意味は内的なものと外的な参照とが渾然一体となって生成される。そのような複雑な位相を、トーラスという形は直感的に示してくれるのである。
螺旋──反復と進行のダイナミクス

図2: アルキメデスの螺旋の模式図。赤い線が中心Oを起点として回転しながら半径方向に遠ざかる螺旋曲線を描いている(角度が0から2π,4π,…と増えるに従って一巻きごとに外へ広がっていく様子)。
螺旋(スパイラル)は、おそらく本論の主題「ぐるぐるして戻らない」を最も端的に体現する図形であろう。螺旋は中心の周りを回転しつつ、徐々に離れてゆく曲線であり、円運動(回転の反復)と直線運動(放射方向の進行)を同時にこなす。すなわち周期性と非周期性が渦巻きの中で両立しているのだ。
時間に対する我々の感覚の中にも、この螺旋のイメージが古くから潜んでいる。イタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコは、歴史は単に直線的に進歩するのでも完全に循環するのでもなく、螺旋的に進行すると考えた。歴史上、同じような事件や悲劇が繰り返し現れるのは、時間が螺旋状に動いており、各巻きで似た位相が訪れるからだという。だが螺旋である以上、歴史はまったく同じ場所には戻らない。一巡するごとに人類は少しずつ「中心から遠ざかる」——つまり経験を蓄積し、新たな地平へ移行している。
ヴィーコのこの洞察は、現代の私たちにも示唆的である。社会現象だけでなく、個人の人生においても「同じ過ちを繰り返す」ことがある。しかしそれを単なる円環的反復と捉えるより、「螺旋的な循環」であると捉え直せば、各反復には微かながらも変化と成長が含まれていることに気づけるだろう。
トラウマ(心的外傷)の時間性は、螺旋として語られることが多い。心理的トラウマは時間が経ってもなお繰り返しフラッシュバックや夢となって現れるが、それらは過去の出来事がそのまま蘇るのではなく、現在の文脈の中で再構成された形で現れる。詩的な表現者であるローレル・シュヴルストは「トラウマは繰り返すが、それに直面する度に少しずつ遠ざかっていける」と述べ、「記憶することは創造すること」だとすら指摘している。記憶は毎回呼び起こすたびに新たなニューロン結合を作り出し、微妙に書き換えられる創造的過程だというのだ。
これは驚くべき見方だが、脳科学的にも裏付けがある。人は想起する度に記憶の痕跡を再固定化(Reconsolidation)し、その際に元の記憶に手を加えてしまうことが知られている。こうした意味でも、一度体験した出来事を思い出す行為は時間を逆行することではなく、時間軸上を螺旋状に進みながら過去に触れる行為なのである。私たちは記憶をたどって過去に戻ったつもりになっても、実際には現在という別の位置から過去を再構築しているに過ぎない。
アン・スティーブンソンの詩を論じたエミリー・グロショルツも、「時間が線分だとすれば、記憶はそれを曲げて円にし、いや螺旋にする」と述べている。記憶によって過去は現在に呼び出されるが、それは「過去そのもの」ではなく「過去の表象」であり、したがって完全に同一の繰り返しにはなり得ない。ここにも螺旋的構造が顔を出す。時間という一直線の川に渦を巻くことで、一時的に過去の情景を現在に浮かび上がらせる——しかし川の流れ自体は前に進んでいるため、渦が消えれば私たちは以前とは別の場所にいる。記憶の追体験は、必ず「いま・ここ」の視点から上書きされたものとなるのである。
文学や詩の領域でも、螺旋はしばしば構造比喩として使われてきた。例えばヘルダーリンの詩やノヴァーリスの小説には「同じ場所への回帰」がモチーフとして現れるが、それは単純回帰ではなく魂の成長を伴った帰還、すなわち螺旋的な上昇として描かれる。近代以降、物語構造を分析する中でも「プロットは円環ではなく螺旋を描く」と指摘されることがある。物語の終わりが冒頭と呼応するような作品でも、読者は読み終えた時点で既に冒頭の時とは異なる世界理解に達しているため、その対応は円ではなく螺旋の一巻きを示唆する。詩的時間とは、このように反復と変容が不可分となった時間であり、螺旋はそれを直観的に示す象徴となっている。
我々が概念の理解やテクストの解釈を行う際にも、思考は螺旋を描く。解釈学における「解釈の円環」は有名だが、実際には円環というより螺旋に近い。すなわち、部分を理解するために全体を参照し、全体を理解するために部分を参照するという循環を繰り返すうちに、理解が深まっていくプロセスである。
これは何度も同じテキストを読み直すたびに新たな発見がある経験にも似る。一見同じ文を読んでいても、読解の文脈(読者の知識・心情)は刻一刻と変化しているため、理解も深化し螺旋階段を上るように高みに達する。「円環」では進歩がないが、「螺旋」であれば一回転毎に高さが増すのである。したがって、解釈学の円環は動的には螺旋と捉えるべきだという議論が成立する。
以上をまとめると、螺旋という図形は反復と前進の二律背反を調停する動的構造として、記憶・意味・時間を語る上で極めて有効なメタファーである。記憶の働きは時間の流れに逆らうことなく過去を現在に立ち上らせ、詩や物語は繰り返しを用いながら読者を未知の地点へ運ぶ。螺旋は、それらの現象に内在するリズムとずれを、一つの形の中に表現する。そして螺旋のポイントは、決して原点に静止しないことである。常に少し先へ、あるいは少し上へと位置を変えながら巡る。この点で、トーラスが示す「閉じた中の無限」に対し、螺旋は「開いた中の循環」という補完的なモデルを提供すると言えるだろう。
楕円曲線──閉鎖系の中の無限

図3: 楕円曲線 $y^2 = x^3 – 5x + 5$ の実数解のグラフ。青い曲線が楕円曲線の実数部分を表している(一つの閉じたループと一つの無限に伸びる枝から成る)。楕円曲線全体(複素数解まで含む)は位相的にトーラスと同等であり、この一見開いた曲線も射影平面上では閉じている。
最後に扱う楕円曲線は、数学的にはトーラスと深い関係を持つ構造である。楕円曲線とは、簡単に言えば「ドーナツ一個分の穴」を持つ代数曲線であり、位相幾何的にはトーラス(種数1の曲面)に対応する。しかしその名前に反して見た目は普通の「楕円(ellipse)」とは異なり、むしろ滑らかな双曲線的曲線として平面上に現れる。典型的には方程式で表すと $y^2 = x^3 + ax + b$ という三次方程式の解集合として定義される。この方程式の実数解を描くと、図3のように一つのループ部分(左側の閉じた曲線)と一つの無限遠に伸びる部分(右側の枝状の曲線)から成る形が現れる。
驚くべきことに、この一見途切れている二つの部分は、実は射影幾何学的には連結に繋がっており、さらに複素数まで含めるとトーラス状に閉じている。言い換えれば、図3の曲線は二次元平面上では片方が途切れて無限遠に消えていくように見えるが、「無限遠点」で二つの部分が繋がっており、全体としては穴の開いたドーナツ形になっているのだ。
楕円曲線には、単なる位相学的興味以上に重要な代数的構造が備わっている。それは加法と呼ばれる演算である。楕円曲線上の点同士をある法則で「足し合わせる」と、再び曲線上の点になるという不思議な性質があり(厳密には「点の加法」について閉じている群構造を持つ)、これが数論や暗号理論で強力なツールとなっている。
この加法のルールは幾何学的には次のように説明できる:楕円曲線上の任意の3点P, Q, Rが一直線上に並んでいるとき、その3点を「和」として関係付ける(つまりP + Q + R = 無限遠点Oという単位元)と約束する。例えば図3中のある点PとQを直線で結ぶと、その直線はもう一点Rで曲線と交わる(高々三次方程式なので最大3点で交わる)。そのRを「マイナス」と定義し、P + Q を R’(Rのx対称点)として定めることで加法が定義される。
少々込み入った話になったが、重要なのは楕円曲線上では点を何度も加える(直線で交わらせる)ことで無限に新しい点を生成できるという点である。もしも一つの点を自分自身に何度も加えていっても決して元の点に戻らない場合(無限位数の場合)、その点の反復によって曲線上に無限巡回列が形成される。これはトーラス上の無理数方向の巻きとアナロジーの関係にある。
実際、楕円曲線の複素平面上での解の集まりは平行四辺形格子で割った複素平面、すなわち複素トーラスで表現できることが知られており、点の加法はトーラス上の平行移動として理解できる。平面的に見ればループ状の曲線の上を行ったり来たりしているだけに見える運動が、実はトーラスという高次構造の上で一方向に進み続けている——そんなイメージである。
このように楕円曲線は有限(閉じたループ)と無限(際限ない加法)とを併せ持つ構造として興味深い。比喩的に述べるなら、楕円曲線は「有限の中に潜む無限」であり、我々の記憶や意味もまた同様の性質を帯びてはいないだろうか? たとえば、一人の人間の人生や文化的経験は有限であり、我々が直接覚えている出来事の数も限りがある。しかしそれら有限の記憶から生み出される物語や意味の組み合わせは事実上無限である。断片的なエピソード(楕円曲線上の有限個の点)を組み合わせる(加法)ことで、私たちは常に新たな意味を紡ぎ出すことができる。それは、有限な文字のセットから無限の文が作れる言語にも似ている。楕円曲線上の点加法が創発的に無限の点を生成するように、記憶のネットワークもまた既存の要素から無限の新規性を生み出しうる。
また楕円曲線は双焦点的な特徴も暗示している。幾何学の「楕円」は2つの焦点からの距離の和が一定な点の軌跡だが、楕円曲線もある種の「二項から成る三次式」で定義されるため、例えば $y^2 = x^3 – 5x + 5$ では $x$ の項と定数項(5)という二つの異なる寄与が曲線の形を決定している(実際には三次項$x^3$や一次項も絡むが)。
このように、複数の要因(焦点)によって形作られる曲線というイメージは、意味や記憶の構造にも当てはまるかもしれない。ある出来事の意味は常に二つ以上の文脈や視点から規定され、その両者を合わせ持ったところに具体的な「意味曲線」が立ち上がる。例えば、一篇の詩の解釈は詩そのもののテキストと読者個人の経験という二つの焦点によって決まり、そのどちらか一方でも変われば解釈(曲線)の形は変容する。楕円曲線が固定された一意の円ではなく、パラメータによって様々なループやくびれを見せるのと同じように、意味もまた文脈に応じて千差万別の曲線を描くのである。
最後に、楕円曲線には隠れた対称性と美的構造があることにも触れておきたい。図3の曲線は$x$軸に関して対称である($y$をプラスマイナス反転しても同じ形)が、これは方程式が$y^2$で始まることから明らかだ。対称性は美の条件の一つと言われるが、楕円曲線の美しさは単なる左右対称だけではない。複素トーラスとして完結する自己充足的な構造、加法という代数的秩序、そして種数1に由来するモジュライ(自由度)の存在——これらが組み合わさって、楕円曲線は数学でも詩的でもある独特の存在感を放つ。
数論の世界では谷山・志村予想(現在のモジュラー予想)のように、楕円曲線が鍵を握る深遠な理論が知られ、その証明(ワイルズの証明)は「数学における詩」と評された。このような背景を知ると、楕円曲線という言葉には、単なる幾何学図形を超えた豊かな連想がつきまとう。閉じていながら開かれ、有限でありながら無限の展開を孕む楕円曲線は、記憶と意味と詩の在り方を思索する上で、得難い示唆を与えてくれるモデルなのである。
以上、本章では楕円曲線を通じて「閉じた構造の内部に潜む無限性」について考察した。トーラスが示す二重周期的な循環、螺旋が示す開放系の循環、そして楕円曲線が示す閉鎖系内の無限——これら三者は一見無関係なようでいて、深い部分で互いに関連し合っている。次章では、それらを統合した意味空間のモデルを提案し、記憶・意味・時間のメタファーを総合的に捉え直す。
意味空間──構造の統合と展開
さて、トーラス、螺旋、楕円曲線という三つの幾何学メタファーを考察してきたが、最後にそれらを総合して「意味空間」という概念モデルを構築してみたい。意味空間とは、記憶や概念や詩的イメージが配置される高次元の空間であり、そこでは複数の軸に沿った循環運動や無限遠への開放が可能だと想定する。
この意味空間は、一種の多元的トーラスとして定義できるだろう。トーラスは2次元だったが、我々の意味空間はより多くの次元(複数の独立した循環軸)を持つものと考える。例えば文化における意味生成には、歴史的反復(時間軸)、社会的共有(空間軸)、個人体験(心理軸)など、複数の位相が重ね合わさっている。
これらをそれぞれ円環的次元とみなして直積構造を作れば、高次元のトーラス(n-トーラス)が得られる。意味空間は、それ自体が多重の環構造を有し、様々なサイクル(習慣、儀式、反復表現)を内包する。例えば言語には韻律や反復語法という循環パターンがあるが、それが意味空間内の一つの円周方向だとすれば、物語の筋や論理の展開は別の円周方向かもしれない。意味空間上の点の動き(意味の変遷)は、そうした複数軸にまたがる螺旋的な軌跡となる。各軸については円運動だが全体として前進していく軌跡は、多重トーラス上の螺旋と言える。
このモデルでは、記憶とは意味空間内を巡る軌跡そのものだ。ある概念やイメージが時間とともに意味空間上を移動していき、時に循環しつつ新たな場所へ達する。その軌跡が記憶のダイナミクスである。例えば、幼少期の記憶Aが意味空間上の一点に対応していたとしよう。その人が成長し様々な経験を経ると、記憶Aの位置は少しずつ変化する(新たな文脈軸方向に移動する)。やがて大人になってから記憶Aを思い出す時、意味空間上では記憶A’として別の点にいる。しかしA’はAに円環軸で連結されており、ある循環に沿って辿ればAに限りなく近づくこともできる。このように、記憶の内容は意味空間内で軌跡を形成している。一つひとつの記憶は点ではなく線(ひと筆書きの軌道)として刻まれていると見るわけだ。
意味の生成もまた、この空間における位置関係で説明できる。言葉や記号の意味はそれ単体で定まるのではなく、他との関係によって決まると構造主義では考える(ソシュールのシニフィアンとシニフィエの恣意的関係など)。この関係性を空間幾何にマップすれば、ある概念の意味は周囲の概念との距離や連結性によって特徴付けられる。意味空間における距離はしばしば度数化できない(意味の類似度などは文脈依存)が、トポロジー的な近さや隣接は直感的に把握できる。
たとえば「火」という概念は「熱い」「危険」「灯」「情熱」など多様な概念と結びつきうるが、それらは意味空間で「火」の近傍に位置する点群だろう。その周囲を巡るように概念の連想ネットワークが広がっている。このネットワークには閉路(ループ)が存在しうる。つまりある概念から連想を辿っていくと最初の概念に戻ってくる場合がある。しかし全く同じ場所に戻るとは限らない——言葉遊びに見られるように、連想の輪が微妙にずれて新しい意味の含みが生まれることも多い。
詩的言語はまさに、この連想の螺旋を巧みに利用することで読者に多義性を感じさせる。ひとつのフレーズが何度も反復されるうちに意味が変容するような詩では、意味空間内で語句の位置が変わっていくのだが、それは繰り返しという円運動に沿いながら常に一歩新たな方向へ踏み出す運動となっている。
さらに踏み込めば、詩的時間そのものも、この意味空間内の動きとして捉えられる。詩を読む体験において、時間の流れはしばしば日常的な直線時間とは異なるリズムを持つ。先に触れたように、詩の中では過去・現在・未来が独特の仕方で交錯することがあるが、それを意味空間内の軌跡として見ると理解しやすい。読者は詩を読み進めるにつれ意味空間の中を移動する。しかしある時、不意に過去の一節(以前に読んだ行)が現在の行と共鳴して立ち現れることがある。それは意味空間内で、ある地点から放たれた光(イメージ)が別のルートを経て再び目に飛び込んでくるような現象である。
一度通過した地点に新たな角度から戻る(螺旋状に戻る)ので、読者はデジャヴュにも似た時間のループ感覚を味わうが、同時に理解は深化している。詩的時間とは、読者が意味空間内を行きつ戻りつしながら徐々に全体像を掴んでいくプロセスと言える。その軌跡は図らずも複雑なトーラス上の螺旋となり、詩の読解という行為が幾何学的な美を帯びてくるのである。
以上の議論を踏まえて、表1に本稿で扱った図像と概念の対応を整理する。トーラス、螺旋、楕円曲線はそれぞれ異なる側面から「ぐるぐるして戻らない」構造を示していたが、意味空間モデルの中ではそれらが連続的に統合される。多次元トーラスが全体構造を与え、螺旋が運動の様式を与え、楕円曲線が有限性と無限性の併存を与える。それらによって形作られる意味空間は、記憶・意味・詩の時間性を包括的に表現しうる豊かなモデルとして提案できる。
表1: トーラス・螺旋・楕円曲線の比較と「ぐるぐるして戻らない」構造
構造 (図像) | 幾何学的特徴 | 比喩的意味 |
---|---|---|
トーラス | 二つの円周による直積構造 (S^1×S^1) 内部と外部が連続 (外密性) |
二重の循環→同じ所を通りつつ文脈がずれる 中心が外部にある→記憶や主体の脱中心性 |
螺旋 | 開いた曲線上の周期運動 (回転+進行) 無限に中心から遠ざかる |
反復 + 進展→経験を重ねつつ再体験 毎回異なる帰結→時間の非可逆性と学習 |
楕円曲線 | 種数1の曲線、位相的にトーラス 加法により無限巡回列 (群構造) |
閉じた枠組内の無限→有限記憶から無限の物語生成 双焦点構造→意味が複数文脈から決定 |
結論
本稿では、現代詩的な時間感覚および記憶・意味の構造を「ぐるぐるして戻らない」ものとして幾何学的にモデル化する試みを行った。トーラス、螺旋、楕円曲線という三つの図像を通じて、それぞれ二重環状の循環、開かれた反復、閉じた中の無限という視点を得た。これらは一見ばらばらなメタファーであるものの、記憶と思考の働きを捉える上で補完し合い、意味空間という包括的モデルに結実することを示した。
私たちの記憶は円環のように過去を巡りながらも、螺旋のように変化と成長を伴っている。意味は特定の文脈に閉じて確定するかに見えて、実際には新たな連想や解釈によって際限なくずれていく。詩に流れる時間は循環反復する韻律によって特徴付けられるが、その効果は読者を未知の場所へ運ぶ推進力である。こうした循環と非循環のパラドックスを、そのまま視覚化したのが本稿で扱った幾何学図形群であった。
もちろん、これらのモデルはあくまで比喩であり、現実の脳や社会の複雑さを厳密に表現できるわけではない。しかし、抽象的な思考実験として幾何学を援用することで、私たちは日常的には捉えにくい記憶と意味の構造を可視化し、新たな洞察を得ることができる。モデル化によって初めて見えてくる現象もある。例えば、螺旋モデルを通して「反復は創造である」という逆説的真理が浮かび上がり、トーラスモデルを通して「私という主体の中心は常に他者によって規定される」という屈折した構造が理解できた。楕円曲線モデルからは、「限られた要素から無限の組み合わせが生まれる」という詩的創造の理論的裏付けを読み取ることもできるだろう。
「ぐるぐるして戻らない」——この印象的なフレーズは、一度聞くと耳に残るが、その実態を掴むのは容易でない。本稿ではそれを具体的な形で捉えようと試みた。結果的に浮かび上がったのは、円環でも線分でもない時間・記憶・意味の姿である。それは例えるなら、ドーナツ状の宇宙を螺旋状に航行する探査機が、決して同じ場所に降り立つことなく無限の新発見を続けているようなものかもしれない。あるいは、あるテーマについて延々と議論し尽くしてもなお新しい視点が現れ続ける知的対話かもしれない。詩とは常にそうした尽きせぬ対話であり、記憶とは常に新たな創造なのである。
最後に付記すると、数学的な厳密さを多少犠牲にしてでもこのようなモデルを語る意義は、異なる分野間の橋渡しにあるだろう。詩人が幾何学にインスピレーションを得たり、数学者が詩的洞察から発想を得たりすることで、新たな知の地平が拓けるかもしれない。構造主義以降、意味の構造を科学的に捉える試みは数多く行われてきたが、本稿のような比喩的モデルもまた知の遊戯として有益であると信じる。トーラスと螺旋と楕円曲線——これらが読者の思考の中で再びぐるぐると回り始め、新たな連想や問いを喚起するなら、本稿の目的は果たされたも同然である。
【註1】: トーラス上の閉じた経路が完全に元の位置に戻るための必要十分条件は、その経路の各周方向成分が互いに有理比例であることである。例えばトーラスを経度方向と緯度方向の二つの円周とすると、経度方向に$p$周し緯度方向に$q$周するような比率で進むと経路は$p:q$の比で閉じる。しかし比が無理数である場合、経路はトーラス面を稠密に充填し尽くす。この現象はトーラスの遍歴線(ergodic trajectory)の典型例であり、動的系の混沌性とも関連する。
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