熱狂と畏怖
彼がその演技を終えた時、観衆は熱狂した。
2019年3月23日、世界フィギュアスケート選手権、男子シングル・フリースケーティング。
この試合で、私は初めて、羽生結弦に「畏怖」の感情を抱いた。
私が視たものは、一体何だったのだろう?
ニースの奇跡
私が、スケーターの羽生結弦を初めて意識したのは、2012年、ニースで開催された世界選手権だった。
彼はこの大会の前、東日本大震災の影響を受けて、地元のスケートリンクを離れることを余儀なくされていた。
その彼が、フリースケーティング(FS)で演じた「ロミオとジュリエット」。このプログラムに、私の心は激しく揺さぶられた。
冒頭の完璧な4回転トウループ。連続するエレメントの後、一瞬止む音楽。
彼はステップの中で躓き、膝を崩す。だが、真っ直ぐに立ち上がり、トリプルアクセル・トリプルトウループの連続ジャンプを跳ぶ。その躓きは、観衆にはまるで、振り付けられた(choreographed)かのように映った。
コレオシークエンスの前、彼はロミオが乗り移ったかのように、激しく叫ぶ。体力的には疲労し切っている。しかし、限界を超えた先のトリプルサルコウ。最後のビールマンスピン。
全てが終わった後に、高く挙げられた右手。その姿は、日常の「羽生結弦」とは別人に見えた。
キスアンドクライで、得点が発表されると、彼は信じられないといった表情を浮かべ、阿部奈々美コーチと抱擁を交わした。この時の彼は、普段の内気そうな少年に戻っていた。
結果は、総合で3位。パトリック・チャン、高橋大輔に次ぐ順位で、銅メダルを獲得する。ここから、羽生結弦の歴史が切り拓かれた。
世界王者
この後の彼の活躍については、改めて説明するまでもないと思う。ソチ五輪、平昌五輪での2大会連続の金メダル獲得。2度の世界選手権優勝。羽生結弦は、「世界王者」として、フィギュアスケート界の頂点に立つ。
2016-17シーズンの世界選手権で披露したプログラム、「Hope & Legacy」は、非の打ち所が無かった。
競技選手が、一生に一度成し得るかどうかの演技。私はこの試合を観戦した後、彼が平昌五輪後に、現役引退の道を選択するのではないかと思った。得点は別としても、これを超える演技をすることなど、できるのだろうか?
原点への回帰
けれど、そんな私の予想を軽々と覆して、羽生結弦は競技人生を続行する。
2018-19シーズン、彼は「原点」に立ち返ることを決心した。SPは、ジョニー・ウィアーが演じた名作、「秋によせて」。
そして、FSは「Origin」。エフゲニー・プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」を元に新たに編曲した、オリジナルのプログラム。
プルシェンコは、羽生結弦を「スケーター」として目覚めさせた、まさにOrigin=起源。旧採点時代、プルシェンコは、「ニジンスキーに捧ぐ」で、芸術点6.0(満点)を記録している。
そのプログラムを現代に再生させるのは、相当の覚悟がなければできない。
4ヶ月の空白
フィギュアスケート選手にとって避けられない、身体の怪我。
羽生結弦も、例外ではない。2018年11月、グランプリシリーズ(GP)・ロシア杯での公開練習中に、彼は過去に痛めた右足首を再び故障する。
結果、グランプリファイナル、全日本選手権を棄権。
4ヶ月の空白期間を挟んだ後、彼は、世界選手権の場に現れた。
窮地に立つ
2019年3月21日、世界フィギュアスケート選手権、男子シングル・ショートプログラム。
羽生結弦は、冒頭の4回転サルコウが2回転となった。本人にしか知り得ない、微妙な感覚の揺らぎ。
「久しぶりに頭が真っ白になった。」と自身で振り返ったように、自国開催という状況による緊張感も、どこか影響していたのかもしれない。
だが、SPで、最大の得点源であるジャンプを失敗することは、勝負の結果を大きく左右する。
実際に、SPの結果は94.87点で、ネイサン・チェン(107.40点)、ジェイソン・ブラウン(96.81点)に次ぐ3位。首位のチェンとの得点差は、12点以上。羽生結弦は、FSでの逆転が難しい状況に追い込まれる。
#フィギュアスケート の世界選手権は21日、さいたま市のさいたまスーパーアリーナで男子ショートプログラム(SP)がありました。#羽生結弦 選手 は94.87点で3位発進となりました。#田中刑事 選手、#宇野昌磨 選手の演技も合わせて写真特集で→https://t.co/ajIyr28V8s #羽生 pic.twitter.com/AfI4Za7b9d
— 毎日新聞写真部 (@mainichiphoto) March 21, 2019
圧巻のフリー
SPから1日空けた後のFS。最終グループの6分間練習。その空間は、緊迫感に包まれていた。
羽生結弦が逆転優勝するには、FSでの完璧なパフォーマンスが必須になる。彼は、鋭い眼光で、4回転ジャンプの感覚を繰り返し確認する。
22番滑走。コーチのブライアン・オーサーに送り出された彼は、リンクの中央で、静かに身を屈めた。
音楽が響き始めると、彼は力強く滑り出す。最初の大技、4回転ループ。世界で初めて彼が成功させた、歴史的なジャンプ。
観衆の視線が一点に集まる中、彼はこれを鮮やかに決めた。
その後の流れは圧巻だった。4回転サルコウが回転不足となった他は、この時点で彼に成し得たパフォーマンスをすべて実現させた。
もちろん、怪我の影響で、全ての要素が完璧であった訳ではない。けれども、私は、その圧倒的な演技の前に、しばらく言葉を失っていた。
極限まで絞り込まれた肉体。それに合わせて象られた完璧な衣裳。そして、鬼神が憑依したかのような表情。
それは、過去に「Hope & Legacy」を優美に舞った、あの羽生結弦と同一人物だったのだろうか?
鮮烈な記憶
今回の世界選手権では、ネイサン・チェンが、FSでも全てのジャンプを成功させ、2位の羽生結弦に20点以上の大差を付けて、2連覇を果たした。
無論、ネイサンの演技は文句の付けようがないものだった。唯一の弱点だったトリプルアクセルも改善し、パフォーマンスの安定感は群を抜いていた。
だが、私の記憶に鮮烈に残ったのは、羽生結弦の「Origin」だった。これはどうしてだろうか。
試合の映像を何度見直しても、おそらくそこに答えはないのかもしれない。何故なら、その「感覚」は、すべての結果を知った後では、得られないものだからだ。
アンフラマンス
フィギュアスケートは、スケート靴で氷上に「図形=figure」を描くことから、その名が付けられた。
しかし、羽生結弦の演技は、この競技の意味を再定義したように思える。未だに、私はそれをはっきりと言葉にすることができない。けれど、一つだけ、想起する概念がある。それは「アンフラマンス(inframince)」だ。
アンフラマンスは、『泉』で知られる美術家、マルセル・デュシャンが、自身の手記に残した言葉。
「infra=下方に」と「mince=薄い」を組み合わせたそれは、私たちの新たな知覚を予言している。その意味は、誰にとっても明晰ではない。しかし、私は、世界選手権での羽生結弦の演技に、アンフラマンスを直感した。
身体に不安を抱えたまま始動した彼の演技は、私の意識を支配した。エッジは左右に傾斜しながら、リンクに無数の弧を描く。エッジは、氷に触れながら、離れている。
跳び立った瞬間に、生成する回転軸。その跡は、氷上には現れない。
彼が着氷した瞬間、世界はその重力を捕らえる。だが、成功と失敗を分け隔てる境界は視えない。
彼は、跳ぶと同時に降りている。その間に存在する微小な差異は、直接、経験されるしかない。
「起源」の先に
羽生結弦は、試合終了後のインタビューで、「自分にとっては負けは死も同然と思っている」と語った。
【2位の羽生「負けは死も同然」】https://t.co/incd1ojsBX
フィギュアスケート世界選手権、2位に終わった羽生結弦はインタビューで「悔しい」と思いを吐露。「自分にとっては負けは死も同然と思っている」と苦笑し、厳しい言葉を自分に向けた。
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) March 23, 2019
それは正直な感想だろう。フィギュアスケート選手は、つねに競技人生という「生」の終わりを、意識の底に据えている。
その時間性は、選手に、独特の光を放たせる。
この先も、羽生結弦は、更なる高難度のジャンプに挑戦するのだと思う。だが、それは、彼にとって、単なる技術的な問題ではなく、芸術的な「生」の問題なのではないだろうか。
次のシーズンがどうなるかは、私には全く予想も付かない。しかし、「起源」に立ち戻った彼が、この先、どのようなベクトルを創出するのか。
その問いに対する答えが現れるのを、私は今から楽しみに待っている。
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