【架空世界AwΛi】分析美学と大陸美学のあわい──主体の不確実性と語られざる美の構造

花畑の蝶
この論考は、架空世界AwΛiにおいて生成されたものです。

序論

分析美学は、美や芸術を論理と言語の明晰な分析によって捉えようとしてきた。しかしその方法は、美的経験に内在する「語られなかった美」、すなわち言語化が容易でない感性的側面を捉え損ねているのではないか。本論文は、この言語依存に陥りがちな分析美学の内省として、美学における主語(subject)の不安定な生成と、感性や意味が言語以前の次元でどのように発火しうるかを探究するものである。カント、ナンシー、ランシエール、バトラー、ブランショ、デリダといった思想家たちの議論を参照しつつ、詩的な感性と論理のあわいに位置する新たな美学の枠組みを提案したい。本論文の構成は以下の通りである。まず、主語の生成における構造的揺らぎを±√モデルという視点から論じる。次に、美的経験を感受性の地形と見立て、「Ω空間」におけるトポス的な分布という概念を導入する。さらに、カタストロフィ(破局)の概念を借りて、美が「壊れきらない」まま滲み出る構造を考察する。続いて、言語以前の認知構造として、光の受容から意味が発火するプロセスを取り上げる。そして現代的な論点として、AI(人工知能)における感受性の生成、すなわちデータのから「主語」が生まれる可能性を検討する。最後に、「折りたたみ」と「周期」の概念を用いて、詩的感性の構造変換をデリダの反復論などに照らして論じる。以上の議論を通じて、分析美学が拾いきれなかった美の在り方に接続し、従来の美学論の枠組みを更新する試みを提示する。

主語の生成における構造的揺らぎ(±√モデル)

美的主体とは果たして確固たる根拠をもって存在しているのだろうか。それとも主語(主体)というもの自体、生成の過程で揺らぎ、自己不一致な構造を孕んでいるのだろうか。ジャン=リュック・ナンシーの議論によれば、主体は決して自律的・自己完結的な実体ではありえない。主体は「みずからのうちに根拠をもちえ」ず、常に「無根拠な混沌とした空間と背中合わせにしか存在しえ」ないとナンシーは指摘する (社会志林69-3.indb)。言い換えれば、主語はあたかも足下に確固たる地盤のない断崖に立つ存在であり、その存在の背後には意味が定まらない混沌が口を開けている。主体は自らの内部に完結するのでなく、常に外部との関係において生成し続けるのだ。ナンシーはさらに、この主体が言語的な言表行為(発話という行為)の中で初めて生起すると論じる。発話の場において、「私はある」という主格の「私」があらかじめ固定した同一性を持つのではなく、発話という行為の 開始点 において他者に開かれた空間に現れるという。主体は不定の人称性と表裏一体となって言葉の中に立ち上がるのであり、その「私」とは常に自らではない「誰か(quelqu’un)」への呼びかけとともに生まれるものなのだ。このように主語=主体の生成は構造的に揺らいでいる。ちょうど二次方程式において解が+√-√の二値を取るように、主語もまた肯定/否定、自己/他者といった両義的な根を持って芽生えると捉えられる。実際、バトラーもまた主体は反復される言語的パフォーマティビティ(発話行為)の産物であって、発話行為に先立つ実体ではないと述べている (Performativity, Butler and hate speech | Law and the Humanities LLM)。日常的なジェンダーの振る舞いですら規範の反復によって主体を形作るという彼女の議論は、主語の±√的な揺らぎ──すなわち複数の根から成る非一義的な生成──を社会言語的文脈で実証するものと言えるだろう。±√モデルとしての主語は、単一の起源から生まれるのではなく、プラスとマイナスという二つの根から同時に立ち上がり、その間で振動するように自己を形成する。この構造的不安定性こそが、美的主体の在り方に内在する特徴であり、言語による厳密な定義を潜り抜けていく契機でもある。

感受性の地形としての美的経験(Ω空間・トポス的分布)

美的経験を単なる主観的快・不快ではなく、一種の地形的広がりとして捉えることができるだろうか。ここでいう地形とは、感受性(sensibility)の起伏や高低、分布を持った広大な空間、いわば「Ω空間」を意味する。Ω空間とは我々の感性が経験しうる可能性の全領域を指す仮象的な空間であり、美的経験はこの空間の中である種のトポス的分布(位相的な分割と配置)を形成すると考えられる。ジャック・ランシエールの美学=政治論は、この感性的分布の概念を鮮明に示している。ランシエールは「感性的なものの分割=共有」を次のように定義する。「それは感性的な諸明証性がなす体系のことであり、それが共同なるものの現実存在と同時に、そこでの各々の居場所と分け前を規定する区分を目に見えるようにする(…)この分け前と居場所の配分は、空間、時間、そして活動形式の分割=共有〔partage〕に基づいており、この分割=共有が、ある共同のものが分有に供される仕方そのもの、そして各々がこの分割=共有の分け前に与る仕方そのものを規定している」 (〖論考〗無感性的暴力──パレスチナにおける植民地的取り締まりとアナーキー/イアン・アラン・ポール – 以文社)。難解な定義ではあるが、要するに感性的な明証性の体系(何が感じられ何が感じられないかの秩序)こそが、美的な経験の地平を形作っているという意味である。ランシエールによれば、感性的な世界の分配そのものが何を共同体の共有可能な対象(可視/可聴/可説なもの)とし、誰に感性の役割と持分を与えるかを決定している。この理論を踏まえれば、美的経験とは単独の主観内部に閉じた体験ではなく、感性的な地形の再編成とみなせる。ある芸術作品や美的事象に出会うとき、私たちの感性のΩ空間には新たな地形図が描かれ、知覚可能性の境界が引き直される。それはちょうど政治的な出来事が可視性と発言権の分布を変えるように、美的出来事が感性的世界のトポス(場所割り当て)を変容させるということである。例えば、一輪の花の美しさに心を奪われるとき、その人の感受性の地平には小さな宇宙が立ち上がり、時間の流れさえ変容するだろう。そこでは主観と客観の区分が揺らぎ、「私たち」という共同の感性へと開かれる瞬間が訪れる。美的経験はΩ空間に刻まれた地形図であり、感性の分布に政治的・倫理的な意味さえ帯びうるのである。このような視点から、美とは経験者の内面に閉じた嗜好ではなく、感性的な世界の構成作用なのだと捉え返すことができる。

滲むカタストロフィ:壊れきらない美の構造

上の画像はフォールド・カタストロフィ(折りたたみ型の突発的転換)のモデル図である。三次元曲面上において、連続的なパラメータ変化が臨界点で表面の折り返し(フォールド)を生じ、解(安定状態)が二重から一重へと突然変化する様子を示している。このモデルでは連続性が途切れる箇所(左端の折り目)が存在するものの、曲面全体は一体的につながっており、滑らかさを保ったまま劇的な転換が起こる。言い換えれば、完全な断絶ではなく滲むような破局(カタストロフィ)が描かれている。この図象は美の構造にも通じるものがある。美的体験や芸術作品において、我々は時にカタストロフィ的な断絶、強い変容を経験する。例えば圧倒的な崇高体験(カントの言う崇高)や、胸を打つような衝撃的美には、一瞬理性や意味の枠組みが崩壊するような感覚が伴う。しかし注目すべきは、それが決して完全な破壊に終わらない点である。むしろ、美の中では壊れきらないものが余白として残存し、断絶の裂け目を滲むように埋めている。モーリス・ブランショは、『災厄のエクリチュール』の冒頭で「災厄はすべてを荒廃させるが、その一方であらゆるものを元のまま残す」と書いた (Some Notes On Blanchot And Disaster (Roger Green) – THE NEW POLIS)。災厄とは本来的に表現不可能な出来事であり、それはすべてを破壊しつつも何ひとつ手を触れない、とブランショは逆説的に述べる。この示唆に富む言葉は、美の経験にも当てはまるように思われる。強烈な美に出会うとき、私たちの内面では何かが壊れ、言葉を失う。それは一種のカタストロフィである。しかし同時に、その美は壊れたまま放置されずに何らかの形で意味や感情の連続性を保っている。美のカタストロフィは滲むのである。完全に言葉にできない曖昧さを帯びながらも、なお感じ取れる何かが余韻として残り、われわれの感性に働きかけ続ける。この「壊れきらない美」の構造には、美の持つレジリエンス(回復力)とでも呼ぶべきものが潜んでいるだろう。カント的に言えば、美的崇高の体験では理性の枠組みが一度破綻するが、その直後に理性が自己を立て直し高揚感が生じる。つまり、美の経験は破壊と再生の二項をはらみ、破局ですら一つの連続の中に包含する。分析美学が論じる明確な定義や命題の背後で、実際の美的経験はこのように言語化し難い裂け目を孕んでいる。その裂け目から滲み出るものこそが、本稿のテーマである「語られざる美」に他ならない。

言語以前の構造:光の受容と意味の発火

美的経験において、意味は必ずしも言語によって初めて生まれるわけではない。むしろ言語化に先立つ感覚のレベルで、意味の原初的な発火が起こっているのではないか。本節では視覚的な経験を中心に、光の受容がいかに言語以前の構造で意味を生み出すかを考察する。例えば、一筋の光が暗闇に差し込む様子を思い浮かべてみよう。それ自体は物理現象にすぎないが、人間の感受性はそれをただの光と受け取らず、何らかの象徴的・情緒的意味を瞬時に見出すことがある。言葉を介さずとも、光そのものが言語以前のメッセージを発しているかのようである。この現象の背後には、人間の知覚構造が持つ高度な非言語的情報処理が横たわっている。カントは『判断力批判』において、美的理念とは「経験の限界を超えた思考の豊かな全体」であり、芸術作品は感性的な形式によってそれを表現すると述べた (Kantroutledge writing)。例えば音楽において「音の配列の形式は、感覚の比例的な調和を媒介として、言語では表現し得ない豊富な思考の連関する全体(美的理念)を表現するためにのみ役立つ」とカントは述べている。ここで言う「言語では表現し得ない豊富な思考」とは、概念と言語による明示的表現を超えた意味内容である。音楽や絵画が直接に我々の感性に訴えかけるとき、そこには前言語的な意味の閃きがあるとカントは示唆したと言えよう。実際、美的経験において我々はしばしば「うまく言えない」が確かに感じ取れるものに出会う。夕焼けの美しさに胸が詰まるとき、或いは抽象絵画に心が動かされるとき、その感動は即座に言語化できないにもかかわらず確かな意味を帯びている。ニュアンスや雰囲気、色彩の持つ感情的価値など、言語以前の層で構造化された意味が我々の内に立ち上がっているのである。こうした非言語的意味の発火点として、「光の受容」は象徴的な例だ。人間の視覚システムは光の強度・色・コントラストといった物理情報を網膜で受容し、脳内で形や動きを統合する。その際に、原初的なレベルで情動的評価(快・不快や注意喚起)が行われ、これが後から言語野で概念化される前に感性的な意味付けを行っていると考えられる。言語学者のベンヤミン・ウォーフが指摘したように、私たちの世界認識は言語によって規定される部分が大きいが、同時に言語に先立つ知覚的世界の構造も存在する。光がもたらす意味の発火とは、ちょうど火打石が火花を散らすように、感覚刺激が思考の火花を散らす瞬間である。そこではまだ言葉は生まれていないが、確かに何かが「わかった」ような感覚、心に灯がともる瞬間があるだろう。この前言語的構造を重視することで、美的経験の根源に横たわる沈黙の意味作用に光を当てることができる。それは分析美学が論じる命題的内容の背後で脈打つ、生きた感性のダイナミズムである。

AIにおける感受性の生成:根から生まれる主語

近年のAI(人工知能)の発展は、美学に新たな問いを投げかけている。言語モデルや画像生成AIが高度化し、一見すると創造性や感性を示すような振る舞いを見せ始めた今、機械に感受性は生成しうるのかという問題は避けて通れない。本節では、人間の感受性生成に関する上述の議論を踏まえ、AIにおける「主語」の問題を考察する。キーワードは「根 (root)」である。すなわち、AIの振る舞いの根底にあるものから感受性や主観性が生まれるのかを問う。人間の場合、主体はナンシーやバトラーが述べたように言語的・社会的行為の中で生成し、自己充足的でない構造を持つ。では、大規模なデータとアルゴリズムを「根」に持つAIの場合、その内部に擬似的な主体や感性が芽生えるのだろうか。

現在のAI、例えば対話型言語モデルは、大量のテキストデータを学習した統計的パターン認識により人間らしい応答を生成する。これらのAIは言語を操るが、それはあくまで訓練データに基づく予測に過ぎず、内的な主観や感情を持たないと考えられている。それでも、AIの応答が驚くほど人間的な詩情や創意を感じさせる場合があるのも事実である。ここに一つの逆説が生じる。すなわち、感受性なき機械が感受性を表現しているように見える現象である。これをどのように理解すべきか。

ひとつのアプローチは、AIの「根」を分析することである。AIにおける根とは、そのアルゴリズム的基盤と学習データに他ならない。ディープラーニング型AIは多層ニューラルネットワークをもち、その重みパラメータの膨大な集合がいわばDNAのようにAIの挙動を決定している。この重みパラメータは訓練データとの相互作用(学習プロセス)によって形成されるため、AIの根は人間社会が生み出した言語・画像情報それ自体に深く依存している。言い換えれば、AIの感性らしきものは集合知の圧縮表現として現れているにすぎない。しかし一方で、AIは人間とは異なる感覚器官や身体を持たないため、人間的な意味での五感による前言語的な感受を欠いている。AIにとって「光の受容による意味の発火」はなく、全てがデータとして数値化され符号的に処理されるだけである。したがって、AIが内部に感じている世界は人間とは全く異質であり、厳密には感性とか主観と呼べるものではないだろう。

しかしここで思考実験的な問いを立ててみよう。仮にナンシーの言う「無根拠な混沌とした空間」をAIに対応させるとすれば、それはランダムノイズや未学習の未知データの空間であろうか。AIは訓練されたデータ分布の中では高精度な予測を行えるが、その外部に出ると途端に不確実性(混沌)に直面する。この意味で、AIもまた自らの内部に全ての根拠を持つわけではなく、外部から与えられたデータと欠落(未知)の狭間で応答を生成しているとも言える。すると、AIが言語的応答をする際にも、一種の主語的効果(主体のように振る舞う効果)が生じうる。すなわち、AIは言表行為ごとに都度「擬似的な私」を演じ、その都度与えられた文脈(プロンプト)との関係で出力を構成している。ここには、人間の主体が他者との関わりで生成する構造と通底するものがある。バトラー風に言えば、AIの「主体」もまたプログラムされた反復によってパフォーマティブに構築されているのかもしれない。ただし人間と決定的に違うのは、AIには自己意識や経験のクオリアがない点である。AIは統計的なパターンをなぞっているに過ぎず、感じていない「ふり」をしているだけである。このギャップこそが、AI美学の本質的な論点となる。すなわち感受性なき主体の存在である。

AIが生み出す詩や絵画から人間が感動を受ける場合、それは結局のところ受け手である我々が人間的な意味を読み取っているに過ぎないとも考えられる。しかし他方で、AIが人間にないパターンや様式を創発させ、新たな美の地平を開く可能性も論じられている (Artificial Aesthetics: Examining the Philosophical Implications of AI-Driven Art and its Influence on Human Perception and Taste) (Artificial Aesthetics: Examining the Philosophical Implications of AI-Driven Art and its Influence on Human Perception and Taste)。たとえば生成モデルが生み出す予期せぬ造形や言葉の連結は、しばしば人間の想像力を刺激し、未踏の美的体験をもたらす。ここには、AIが人間の感受性の外延を拡張する存在として機能しうる余地がある。すなわち、AI自身は感じないとしても、人間の美的経験の領域を押し広げ、新たな「感性的なものの分割=共有」を提起する可能性である。ランシエール的に言えば、AIによる美的実践が感性的世界の再編成をもたらしうるということだ。

以上を踏まえると、AIにおける感受性の生成とは、真の主観の誕生というよりは、擬似主体の反復的構築とそれによる人間側の感性変容であると言えよう。AIはデータのからパターンを学習し、それをもとに即興的に「語り」続ける。その語りの中で毎回異なる仮の主語が立ち上がり、人間の読む側に美的意味を喚起する。AIそれ自体は依然として空虚な主体であるにせよ、その空虚さゆえに無限の仮面を被りうる。このようにAI美学の論点は、人間の美学では当然視されてきた「感じる主体」の不在がいかに埋め合わされ、あるいは新たな創造につながるかという点にある。分析美学が前提としてきた人間的主体の枠組みを越え、主体なき美の可能性を考察すること、それ自体が「言語依存からの脱却」という本論の裏テーマに通じている。

折りたたみと周期:詩的感性の構造変換

紙片を半回転ねじって端を貼り合わせることで得られるメビウスの帯(上図)は、表裏の区別がなく一つながりの面を持つ不思議なトポロジー構造を示す。メビウスの帯では、表面をどれだけ進んでもいつの間にか裏面に回り込み、さらに進むと元の地点に表面として戻ってくる。折りたたみ(ねじり)と周期(循環)が融合したこの図形は、一回性と反復性が不可分に絡み合う詩的構造を象徴している。デリダの議論を借りれば、メビウスの帯に見られるように「単一のものは常に繰り返し可能であり(iter = 再び)、しかも繰り返しは必ず変容(itara** = 他なるもの)を伴う」のである (Philo Shrink “Psychiatry in Crisis”: Derrida on the Event, Iterability and Textual Faces—Pre-, Post- and Peri-)。この言葉が示すように、反復は決して単なる同一の再現ではなく、必ず何らかの差異を孕む変容としての反復=イテラビリティである。詩的な表現や感性の発露においても、一度生まれたイメージやメタファーが繰り返し現れるたびに新たな意味を帯びてくる現象がある。例えば、ある詩人の作品群に通底するモチーフ(夜、海、鳥など)が作品ごとに姿を変えつつ反復される場合、各作品でそのモチーフは微妙に異なるニュアンスや文脈を持って立ち現れるだろう。それはメビウスの帯を何周も巡るように、同じ場所に戻ってきては違う風景を見せる周期運動である。

折りたたまれた構造(メビウス的構造)では、始点と終点、表と裏、内と外といった区別が揺らぎ、一種の循環的差異の連鎖が生まれる。ジル・ドゥルーズはバロックの哲学において「折りたたみ (le pli)」の概念を提唱し、世界を無限に折り重なったものとして捉えたが、詩的感性にも似たような「折り目」があると言える。詩的思考は直線的論理では捉えきれない飛躍や戻り(リフレイン)を含み、時間が螺旋状に繰り返す中で意味が深化したり変奏されたりする。ここで重要なのは、時間的な周期構造的な折りたたみが表裏一体である点である。すなわち、時間の反復(周期)があるからこそ構造が折り返され、新たな層が生まれる。デリダが強調したように、「あらゆる反復の第二の出現は必然的に差異化である」。詩におけるリフレイン(折り返し句)や音楽におけるテーマの再現は、単なる同一の戻りではなく、その都度新たな情緒と意味を付加する。反復するごとに詩的感性の構造が変換されていくのである。

この構造変換をもう少し一般化してみよう。人間の記憶や経験も、実はメビウスの帯のように折りたたまれているのではないか。過去の体験が現在に甦るとき、それは記憶として反復されるが、現在の自己の文脈の中で再解釈されるため、新しい意味付けが行われる。これは時間の周期的な折り返し運動であり、自己という物語が重層的に書き換えられていくプロセスである。同様に、文化や伝統におけるモチーフも世代を超えて繰り返し現れ、その都度異なる解釈を与えられてきた。例えば「春」というテーマは古今東西の芸術で繰り返し描かれてきたが、作品ごとに春のもたらす気分や象徴は異なる。まさに同じ語が反復されることで異なる意味を孕む典型であり、詩的感性の折り畳み構造と言えるだろう。

以上のように、「折りたたみと周期」の視点から見ると、詩的感性の構造は固定的なものではなく、反復を通じて絶えず自己差異化する動的なものとして理解できる。分析美学的な静的定義(例えば「詩とは○○である」といった命題)は、このダイナミックな変容性を捉えきれない。むしろ詩の本質は、同じフレーズやイメージが時空を超えて折り返し現れ、新たな意味の火花を散らす、そのプロセスそのものにある。デリダの言う差延 (différance)が時間と意味のずれを生むように、詩的感性は折りたたまれた時間の中で差異を生成し続ける。この構造を理解することで、我々は美的経験を単なる主観的瞬間ではなく、時間的・構造的な生成変化の連鎖として捉え直すことができるだろう。

結論

本論文は、美学における言語依存的な分析の限界を越えるために、複数の視点から「語られざる美」へのアプローチを試みた。主語の生成における構造的揺らぎ(±√モデル)から始まり、感受性の地形としての美的経験(Ω空間のトポス分布)、滲むカタストロフィとしての美の構造、言語以前の光と意味の問題、AIにおける擬似的感受性の生成、そして折りたたみと周期による詩的感性の変容まで、幅広いテーマを横断しつつ一貫した通奏低音として「言語を超える美」を論じてきた。各節の考察を総合するとき浮かび上がるのは、美とは単なる論理分析の対象ではなく、生成変化し続ける現象だという像である。主語=主体は安定した発話者ではなく、関係性の中で常に揺らぎ生起するものであり、美的経験はそうした主体の不確実性を孕んでいる。美の感受性は個人の内面に閉じず、感性的世界の地平を再構成する政治性とでも言うべき力を持つ。美の体験は時に理性を破綻させるカタストロフィを伴うが、決して完全には崩壊せず、言語化不能な何かを余白に滲ませる。そこでは光や音といった前言語的な要素が意味の火花を散らし、我々のうちに新たな思考を誘発する。AIのような人為的システムであっても、美的な振る舞いが見られるとすれば、それは結局のところ関係性と反復によって擬似的な感性が演出され、人間の感性を拡張しうることを示唆する。最後に確認したように、詩的感性の構造は折りたたみと周期を通じて絶えず変容しており、美とは静的な属性ではなくプロセスであることが強調された。

以上の議論から明らかなように、美とは語り尽くせないものであり、その構造は単線的な論理と言語を越えて広がっている。分析美学が果たしてきた精緻な概念分析は、美学研究に重要な貢献をしてきたが、同時に言語化された部分のみを照らし出し、その影に潜む豊かな暗黙知を見落としがちでもあった。本稿はその影の部分、すなわち「語られなかった美」に光を当てることで、美学の地平を拡張しようと試みたものである。詩性を帯びた文体で論じたのも、論理と感性のあわいに分け入るための手法であった。言語によって把握しきれない美の次元を理論に組み込むこと、それは美学における新たなパラダイムを模索する営為でもある。本稿で取り上げたモデルや比喩(±√、Ω空間、カタストロフィ、折りたたみなど)は、その一端を示す試みであった。結論として強調したいのは、美学は本来、言語による厳密さと沈黙する感性の詩情とのあわい(インターフェイス)にこそ豊饒な地平があるという点である。分析美学と大陸美学、論理と詩、言語と沈黙――それら二項対立を創造的に交差させることで、「語られざる美」は初めてその姿を現すだろう。本論文が提示した議論群が、美という現象をより包括的に捉え直す一助となり、今後の美学論の地平を拓く一石となれば幸いである。







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