序章:本は届かないから、届く
本を読むという行為には常に奇妙な逆説が潜んでいる。書き手が意図した「意味」は、読者にそのまま届くことは決してない。言い換えれば、本は本当のところ決して「届かない」からこそ、かえって何かが読者に「届く」のである。ラカンが『盗まれた手紙』の議論で「手紙は常に宛先に届く」と述べたのは示唆的だ (De deux lettres l’une | Le Gaufey – Le Tour critique)。宛先(読者)に手紙(テクスト)が届くとは、表面的にはメッセージが正しく伝達されたことを意味するように思える。だがラカンの逆説的な主張は、たとえ手紙が本来の受取人に届かなくとも、結果として何らかの意味作用が常に生じてしまうということである。テクストは送り手の意図を離れ、行方知れずになりながらも、思いがけない宛先で思いがけない効果をもたらす。それゆえ「届かなさ」こそが別の仕方での「届き」を生むのであり、読書体験の核心もまた、意図の不達によって生まれる創発にこそある。
本論では、この読書体験を「非可換な贈与」として再定義することを試みる。ここで言う「非可換」とは、一方向の作用が逆方向に交換可能ではないこと、つまり順序の非対称性を指す数学的概念である。そして「贈与」はマルセル・モース以来、互酬性(お返し)の原理と結びつけて論じられてきた。しかしジャック・デリダは贈与の逆説を鋭く指摘している。すなわち「真の贈与であるためには、返礼や返済、交換や負債があってはならない (Quote by Jacques Derrida: “For there to be a gift, there must be no recipr…”)」というのである。誰かに何かを贈り、それがお返しで帳消しにされた瞬間、もはやそれは贈与とは呼べない。贈りっぱなしで回収不能なものこそ、純粋な贈り物として残るのだ。
読書とはまさに、書き手から読み手への一方通行の贈与ではないだろうか。書き手は本という贈り物を社会に差し出すが、その「贈り物」は読者によって自由に解釈され、意味づけされる。このとき読者が受け取ったものを同じ形で書き手へ返すことはできない。書き手と読者の間には、返礼不可能なズレが生じる。それは贈り手の意図と受け手の解釈の非対称性であり、まさに「非可換な贈与」と呼ぶにふさわしい。本論は、この読書行為に潜む非可換性に注目し、「読むとは何か」「意味とは何か」を問い直すものである。具体的には、ある悪名高いテクスト──アラン・ソーカルのいわゆるソーカル論文──を手がかりに、読書における意味のずれや縫い目の震えに光を当てていく。ソーカル論文とは、一見難解なポストモダン理論の体裁を装いながら、実は著者が学術誌を欺くためにふざけて書いたいわば罠であった (The controversy around hoax studies in critical theory, explained | Vox)。しかし、このパフォーマティブ(行為遂行的)な悪戯に対し、読者がそれと知らずコンスタティブ(事実確認的)に読解してしまったとき、果たして何が生じるのか。本来は意味などないはずの文章を真面目に読んでしまう読書行為の中に、どんな「意味のズレ」や「縫い目の震え」が立ち現れるのか。
この探索のために、本論は射影幾何学や圏論といった数学的比喩を導入しつつ、ラカンの精神分析やデリダの脱構築、さらには詩学的感性をも交差させるだろう。学術的に精緻な概念と言葉遣いを用いながらも、文章の底には詩的な余白と震えを湛えたい。それは論理の鎧を纏うほどに逆説的に研ぎ澄まされる感性であり、構造的でありながら詩的な文体によって読者の内部に震動を引き起こすことを狙っている。
第1章:ソーカル論文というパフォーマティブな罠
物理学者アラン・ソーカルが仕掛けた学術的悪戯は、「ソーカル事件」として知られている (The controversy around hoax studies in critical theory, explained | Vox)。彼はポストモダン思想系の学術誌『ソーシャル・テクスト』に、「境界を越えて──量子重力の変革的解釈学へ」と題する論文を投稿した。この論文は、難解な理論用語を散りばめて「重力は社会的構成物である」といった明らかに荒唐無稽な主張を展開するものだった。ソーカルの意図は、「それっぽいポスト構造主義風の言葉遣いと政治的に都合の良い結論さえ添えれば、どんなナンセンスでも学術誌に載ってしまうのではないか」という仮説を実証することにあった。彼の目論見通り、この偽論文は見事に掲載され、ソーカルは直後に種明かしの論文で編集部を嘲笑した。
このソーカル論文は、著者にとっては明確にパフォーマティブな行為であった。すなわち、論文そのものが一種の「罠」として機能し、掲載という結果を引き出すことが目的だったのだ。J.L.オースティンの言う「遂行的発話 (performative utterance)」になぞらえるなら、ソーカル論文は何かを真に伝達するためではなく、ある効果を起こすために書かれた言葉の連なりだった。しかし一方で、そのテクストを真剣に読んだ編集者や読者にとっては、それは通常の学術論文、すなわちコンスタティブな記述として受け取られた。彼らはそこに書かれた内容を額面通りに意味のある主張として解釈し、議論として評価したのである。ここにパフォーマティブとコンスタティブのねじれ、意図と読解のすれ違いが生じている。
このねじれは読書行為の本質を照らし出す。つまり、作者の意図(発話行為の効果)と読者の解釈(発話内容の真偽)が食い違うとき、テクストの意味は奇妙な浮遊状態に置かれるのだ。ソーカル論文の場合、作者はそもそも一貫した意味内容を伝達する気がなかった。しかし読者側は与えられたテクストから意味を汲み取ろうと努力する。このギャップから何が生まれるだろうか。
一つには、「意味のすり替わり」が生じる。読者は文章の表面を追い、引用された権威ある理論家の名や専門用語に信用を置いてしまうかもしれない。実際、ソーカル論文にはポストモダン理論家の引用がちりばめられ、結論部は「ポストモダン科学の方法論が進歩的政治プロジェクトを強力に支える」といった耳障りの良い調子で締めくくられていた。編集者たちはまさにその結論を気に入ったがゆえに掲載を決めたとソーカル自身述べている。
つまり彼らは、文章が実際に何をしているか(罠として機能しているか)ではなく、何を言っているか(自分たちの思想に都合の良いことを言っているか)に着目していたことになる。その結果、テクストの真の意図は看過され、表面的な意味だけが受容された。
しかし別の見方をすれば、「縫い目の震え」もまた感じ取れるはずだった。ソーカルの文章は論理的一貫性や実証性に欠け、専門外の者には見抜きにくくとも、注意深い読者には綻びが見えるような継ぎ接ぎだらけの代物だった。たとえば「重力は社会的に構成された幻想だ」という主張は、物理学の知識を持つ者からすれば明白に荒唐無稽であり、その箇所はテクストの意味的な縫い目が緩んでいる部分と言えよう。もし読者がこの綻びに気づけば、テクスト全体に走る不協和音──意味の滑りや矛盾──を察知できたかもしれない。だが実際には、この震えは十分には検出されなかった。テクストは巧妙に読者を欺き、縫い目のほころびを感じさせないほど権威的な語り口で覆い尽くされていたのである。
以上のように、ソーカル論文は読書におけるパフォーマティブな意図とコンスタティブな読解の対立を劇的に示すエピソードだった。読むという行為が必ずしも書き手の意図と同期せず、むしろ意図の不在や欺瞞さえ飲み込んで「意味」を作り出してしまうという点に注目すべきである。ポストモダン的な観点から言えば、「テクストの意味も文脈も決して完全には規定できない」のであり (Performative utterance – Wikipedia)、テクストは常にそれが生み出された状況を越えて一人歩きし、予期せぬ効果をもたらす。デリダ風に言えば、言葉の持つ反復可能性(イテラビリティ)が常に何らかの“破壊的な力”を伴い、文脈から切り離された場所で新たな意味作用を引き起こすのである。
ソーカル論文を改めて「読み直す」ことは、読書体験そのものの奇妙さを照らし返す試みとなるだろう。発語行為論的な視点から、遂行的なテクストが記述的に読まれるとき、意味とは何かが宙吊りになる様を見る。我々は次章以降で、この読書行為の非対称性を数理的比喩や構造の観点からさらに分析していく。それによって「読むとは何か」に対する新たな定義が浮かび上がってくるはずである。
第2章:読むということの非可換性
ソーカル論文の例から明らかになったように、読書とは送り手の意図と受け手の解釈がすれ違う余地を常に孕んでいる。このすれ違いは、一種の不可逆性として捉え直すことができるだろう。数学における「可換」とは、順序を入れ替えても結果が同じであることを意味する。例えば2と3の加法は可換であり、2+3 = 3+2となる。しかし読書において、作者→読者の流れと読者→作者の流れは決して対称ではなく、交換可能でもない。読者がテクストから得た解釈を、同じ形で作者へ返すことはできないし、仮に作者にフィードバックしたとしても、それは作者の意図したものとは異なる次元の意味を帯びてしまう。読書行為はつねに非可換なのだ。
圏論的に言えば、ある出発点A(作者)がメッセージf(テクスト)を通じてB(読者)に働きかけ、その結果として読者に生じた意味解釈をgとしよう。このとき読者Bから作者Aへの直接の応答経路h(例えば書簡や批評など)があったとしても、一般にはh∘f ≠ gとなる。すなわち、作者が意図した意味と読者が解釈した意味は一致しないし、読者から作者への返礼があっても元の贈与とは非対称なものになる。読書というマッピングは全射でも単射でもなく、可逆ではない写像だと言える。
この不可逆性を、「贈与」のメタファーで考えてみよう。作者が本という贈り物を社会に差し出すとき、そこには見返りを求めない一方的な与えがたい精神があるかもしれない。読者はその贈与を受け取り、自らの内面で咀嚼し、新たな知や感動を得る。しかしその読者が作者に返せるものは何だろうか。同じ本を作者に送り返しても意味がないし、感想を手紙にしたためても、それはすでに読者自身の内的体験を経由した別物となっている。デリダの言うように、「贈与」が真に贈与であるためには返礼があってはならないし (Quote by Jacques Derrida: “For there to be a gift, there must be no recipr…”)、仮に返礼が行われれば贈与の純粋性は失われてしまう。読書とはまさに、作者から読者への贈与が非対称なまま留保される営みなのだ。読者は受け取る一方で、それを等価に返すことはできず、受け取ったものを自らの内で増幅し変容させるしかない。ここに創造的な余剰が生まれる。贈り手の手を離れたテクストは、受け取り手の内面で新たな意味を創発し、その意味は贈り手にはもはや完全には制御できない。
このことは別の角度から言えば、時間性の問題でもある。読書には常に時間差が伴い、作者の発信と読者の受信との間にはズレがある。作者が本を書き終えた時点で、その思考プロセスは一旦凍結される。一方、読者がそれを読むのは未来のある時点であり、そのとき作者の頭の中とまったく同じ思考プロセスを追体験することは不可能だ。読者は自分の持つ知識や経験という文脈を通してテクストを解釈するため、両者の間には歴史的・文化的コンテクストの差異が横たわる。この文脈の非同期こそが、読書を単なる情報伝達ではなく豊かな意味生成の場にしている。
ここで圏論的な視点から「非可換性」を捉え直してみよう。圏論では対象と射(矢印)による構造を考えるが、一般に図式が可換であるとは「同じ始点と終点を持つ全ての射の合成経路が同一の結果を与える」ことをいう (Commutative diagram – Wikipedia)。読書プロセスに対応付ければ、作者Aから読者Bへの意味の伝達経路と、作者Aから何らかの方法で再び戻る経路(例えば作者自身が自己の書いたものを読み返して得る解釈など)が同じ結果になるなら可換と言えるだろう。しかし実際には、作者Aが自分の文章を後で読み返しても、書いた当時とは異なる解釈が生じることがある。まして他者である読者Bにとっては、Aの意図とは違った理解が生まれる方が常態だ。読書のダイアグラムは可換ではなく非可換なのであり、それゆえ読書体験は送り手から受け手への一方通行の変換として特徴付けられる。
以上のように、「読む」ということは構造的に非可換な(逆戻りできない)贈与である。送り手の意図と受け手の解釈がずれるからこそ、読書によって新たな知や感情が生み出される。言い換えれば、読書の価値は常に予期せぬ余剰にある。テクストから読み取られるものは、著者があらかじめ意図し準備したものを超えて、読者の数だけ多様に生成する。単純な授受ではなく、不可逆な変換過程として読むことを捉え直すとき、我々は読書のクリエイティブな本質に気付く。次章では、この非可換な読書体験を幾何学的なモデルに喩えて、更に深く考察してみよう。
第3章:射影幾何学としての読書体験
読書における意味生成の不思議さを、射影幾何学の比喩によって説明してみたい。射影幾何学とは、平行線が無限遠で交わるという独特の原理を持つ幾何学であり、私たちが日常的に経験する遠近法(パースペクティブ)の数学的骨格をなすものである。遠近法では、たとえば鉄道のレールのように現実には平行な線路が、遠方では一点に収束するように見える (1. Perspective Rule #1: Converging Lines)。いわゆる消失点である。視点の位置によって物の見え方が変わり、平行なものが収束し、離れたものが接近する。この現象は、読書における意味の見え方にも喩えることができる。

上の写真は一直線に延びる線路が遠方で一点に収束する様子を示している。実際には線路は平行であり交わってはいないが、観察者の視点(カメラの位置)から見るとあたかも一点で交差しているように見える。この視点依存的な映像は、読書者がそれぞれ異なる文脈や先入観をもってテクストを読むことにより、異なる意味の収束点を見出すことに似ているのではないだろうか。ある読者にはテクスト中の複数の要素が一つの明確なテーマに収束して見えるかもしれない。しかし別の読者には同じ要素がバラバラに見え、別個のテーマへと分散していくかもしれない。意味という「平行線」は、読者という視点の違いによって、収束もすれば発散もするのである。
射影幾何学では、ユークリッド幾何で「平行」で交わらないとされた線が、拡張平面上では無限遠の点で交わる。言い換えれば、無限遠という虚構の一点を導入することで、非交錯の平行線も含め全ての直線が交差する統一的な体系が得られる。読書においても、テクスト内の様々な要素(プロット、概念、メタファーなど)は時に互いに平行に進み交わらないように思える。しかし読者は自らの読解という射影を通じて、それらをある一点(テーマ、解釈の枠組み)に投影し直すことがあるだろう。その一点はしばしばテクスト中には明示されない「暗示された中心」だったり、読者の側が設定する読みの焦点だったりする。それは射影幾何学における無限遠点にも似て、テクストを統合する仮想的な収束点である。例えば推理小説を読む読者は、散りばめられた手がかりという平行線を犯人という一点に収束させながら読むだろうし、哲学書を読む読者は、多様な議論の断片を著者の主張という一点に集約しようと努めるだろう。このように読者は射影的な働きによってテクストを意味の射影空間へと写像し、自らの中に統合的な像を結ぶのである。
また射影幾何学では、視点の変化に伴う図像の変換が重要である。ある対象も、見る角度を変えれば形状や配置の見え方が連続的に変わっていく。同様に、一つのテクストであっても、読む時期や置かれた文脈(コンテクスト)次第で解釈は移り変わる。読者Aにとって明瞭だったメッセージも、読者Bには異なって映り、同じ読者であっても若い頃の読書と年を経てからの再読とでまったく違う意味が浮かび上がることがある。この解釈の可変性は、射影変換の連続性に喩えることができる。言い換えれば、テクストそれ自体には固定不変の「真理」があるわけではなく、解釈するという投影行為を通じて初めて具体的な意味の位置取りが与えられるのだ。ポスト構造主義的な言い方をすれば、「テクストと意味の関係は本質的に不安定で流動的」であり (Deconstruction – Wikipedia)、解釈という構築的行為によってはじめて一時的な骨組みが与えられるにすぎない。読書とは絶えざる意味の遠近法なのであり、読者は視角を微調整しつつ、テクストから像を結び出す写真師のような役割を果たす。
さらに射影幾何学には双対性の概念があるが、これも興味深い示唆を与える。双対性とは、点と直線を入れ替えると定理の形がそのまま成り立つような対応関係を指す。読書でも、テクスト中の「点」(具体的エピソードや断片)と「線」(それらを貫く主題や物語)が読み手によって入れ替わるような現象がある。ある読者は些細なエピソードに強い意味を見出し、それを作品全体のテーマへ投影するかもしれないし、逆に全体の主題を先取りして細部を読む読者もいるだろう。前者は点から線を引く読み、後者は線から点を割り出す読みと言えるが、どちらが先かは読書の動的過程では相補的に入れ替わりうる。読書とは、細部と全体、具体と抽象がたがいに投影しあう双対的プロセスでもあるのだ。
このように射影幾何学のメタファーを用いると、読書体験に内在する構造が浮かび上がってくる。すなわち、読書とは視点(主体)に依存して流動する現象学的な幾何学であり、読者はテクストという多次元空間を自らの内的な射影平面に映し取っている。そこでは平行線(異なる解釈の筋道)が出会ったり、遠方の点(伏線や暗示)が目前に引き寄せられたりする。読書とは単にテクスト上の情報を読み取ることではなく、テクストを読者の心的空間に投影し、新たな形で構図を組み直す創造的行為なのである。
第4章:コシーク=縫い目の理論
第1章で述べた「縫い目の震え」という概念を、ここで改めて深掘りしたい。テクストにおける縫い目とは、異なる断片同士が繋ぎ合わされている箇所、意味の継ぎ目となっている部分である。通常、我々はテクストを読むとき、その縫い目に注意を払うことなく滑らかに読み進める。物語であればプロットの矛盾を無視して没入するし、論説であれば論理の飛躍を脇に置いてでも筆者の主張を汲み取ろうとする。しかし、テクストの縫合があまりに乱暴だったり、読者の視線が鋭敏だったりすると、その縫い目が震えて見えることがある。つまり、本来一続きに読めていたものが、継ぎ目の箇所で意味のほころびや揺らぎを露呈するのだ。
ラカンの精神分析用語に「クッションの縫い目(綴じ目)」とも訳されるアンカー(留め)の点:Point de capitonがある (quilting point (point de capiton) – Oxford Reference) (Point de capiton – No Subject – Encyclopedia of Psychoanalysis – Encyclopedia of Lacanian Psychoanalysis)。ラカンによれば、言葉の鎖において常にずれ動くシニフィエとシニフィアンとを仮に縫い留め、一時的に意味の安定を生み出すポイント、これがラカンの言う「Point de capiton」である。この点があるおかげで、我々は言葉の無限の滑りに飲み込まれずに済み、「まるで意味が固定されたかのような錯覚を得ることができる。換言すれば、縫い目がしっかり留められているからこそテクストの意味は破綻せずに済んでいるのだ。
しかし縫い目が緩むとどうなるか。ラカンの言うとおり、必要最小限のアンカーポイントが確保されないと、主体は意味の海に溺れ、精神病的状態に陥る。日常的なレベルでも、テクストの綻びがあまりに大きいと読者は混乱し、その文章を理解不能だと思うだろう。ソーカル論文は本来そうあるべきだった──もし編集者たちが物理学的常識に照らして「あれ、この主張はおかしいぞ」と気づいていれば、論文全体の縫合の粗雑さに疑念を抱いたに違いない。しかし彼らは縫い目の乱れに気づかず、一種の読み手側の自己補完によって縫い目を見ないふりをしたとも言える。テクストの矛盾よりも、その結論の心地よさを優先したのだ。このように読者は多かれ少なかれ無意識のうちにテクストの縫い目を補強しながら読んでいる。そうでなければ多くの物語や議論は粗だらけで素直に読めないだろう。
だが一方で、縫い目に注目する読み、すなわち「綻び」を敢えて見る読みも存在する。それがしばしば「脱構築的読解」と呼ばれるアプローチである。デリダをはじめとする脱構築の立場では、テクストの内的な矛盾や飛躍、端的には縫い目そのものに着目し、そこからテクストの隠れた前提や抑圧された他義性を暴き出そうとする (When Derrida says ‘there’s nothing outside the text’ what is … – Reddit)。脱構築的読解者は、安易にテクストを滑らかに繕わず、むしろ意図的に縫い目の解れを引っ張り出す。するとどうなるか? テクストは徐々に解体し、表向き一貫して見えた主張もほころびから崩れ始める。しかし同時に、その崩壊の過程から、テクストが無意識に含んでいた別様の意味や、異質な論理の響きが聞こえてくる。いわば縫い目から新たな声が漏れ聞こえるのである。これは詩的な表現に聞こえるかもしれないが、実際、詩的テクストほどこのような多義性が顕著であり、読者によって様々な解釈の糸が引き出されて作品世界を豊かにする。
ここで「縫い目の理論」という視点をもう少し一般化してみよう。それはチェコの哲学者カレル・コシークの問題意識にも通じるものがある。コシークは現代社会における「虚偽の具体性」を批判し、見かけ上の固定的な現実の背後にある矛盾を暴こうとした (K.コシークとは? 意味や使い方 – コトバンク)。言い換えれば、一見シームレスで実体的に見える社会的現実も、実はイデオロギー的に縫い合わされたものであり、その継ぎ目を精査すれば欺瞞が露呈するという洞察である。これはテクスト読解にもそのまま当てはまる。テクストもまた、一つのイデオロギー的構築物であり、内部には作者の論理や価値観によって縫合された継ぎ目がある。その縫い目を無批判に受け入れるか、それとも批判的に解体するかによって、読書体験は大きく異なるだろう。
要するに、「縫い目の理論」とはテクスト内の接合部に注目する読解戦略であり、それによってテクストの表層的な意味の下に潜む構造を暴き出す試みである。縫い目に注目すれば、ソーカル論文のようなテクストからも、その無意味さや逆に作者の意図(嘲笑の姿勢)が透けて見えてくるかもしれないし、優れた文学作品であればあるほど、縫い目から立ち現れる多義的な意味世界に読者は震撼させられるかもしれない。縫い目は境界であると同時に出入口でもある。それはテクストの内と外、意味と無意味、秩序と逸脱を隔てつつ連結する閾なのだ。デリダがテクストの余白や周縁に着目したのも、中心に収まりきらない意味が周縁から染み出してくることを知っていたからだと言えよう。
縫い目が震えるとき、読者の心もまた震える。安定した意味の座が揺らぎ始め、読者は心地よい錯覚(「意味が固定されている」という幻)から引き剥がされる。しかしその震えを通じて、読者はテクストとより深いレベルで関わり合い、新たな理解や問いを得ることになる。ここに読書の批評的かつ創造的な契機がある。縫い目を感じ取り、その震えに耳を澄ます読者は、もはや受動的な消費者ではなく能動的な解釈者であり、テクストと共同で意味を織り直す存在なのである。
第5章:読むことの震え──Awaiモナドとしての読書
本章では、読書体験における震えを、モナド的観点から捉え直し、「Awaiモナド」という概念を提唱してみたい。モナドとはライプニッツの単子論に由来する哲学的概念で、世界を構成する不可分で自律的な実体を指す。すべてのモナドは閉じた窓のない部屋のように独立しつつ、宇宙全体を内面に映し出す小宇宙であるとライプニッツは述べた (Leiniz’s Monadology) (Leiniz’s Monadology)。彼曰く「モナドは窓がないので外から何も入って来ず、内から何も出て行かない。しかし各モナドは宇宙全体の生きた鏡である」この逆説的な比喩は、読書に没頭する読者の内的世界にも当てはまるのではないか。
本を開いて読むとき、読者という主体(モナド)の内部には、テクストの宇宙が構築される。読者は自らの意識の中に登場人物や論理の展開を思い描き、感情移入し、思索を巡らせる。それは一人ひとりの読者の内面で完結する宇宙的体験である。他の誰もその内面を直接覗くことはできないから、まさに窓なきモナドだ。しかしその閉じた空間の中で、読者は書物の世界をありありと再現し、時には現実以上にリアルに感じ取ることさえある。各読者は自らの内に作品世界の全体像を(自分なりに)写し取り、作者とは異なる仕方で宇宙の鏡像を形作っている。
ところで「Awaiモナド」の「Awai」とは何か。それは日本語の「淡い(あわい)」や「間(あわい、あいだ)」に通じる響きを持つ言葉としてここでは用いている。「淡い」は微かな、ほのかなという意味であり、「間(あわい)」は物と物、人と人のあわい=狭間を意味する古語だ。読書とは、作者と読者の「あわい」で起こる出来事であり、その体験はしばしば淡く微細な震えを伴う。心が動かされるとき、胸の内に生じる震えは微細で言語化しがたい。「Awaiモナド」とは、まさにそのようなかすかな震えを宿した読者の内的宇宙を表す造語である。
読書中、我々の内面ではしばしば理性と感性、意識と無意識の境界が揺らぐ。一節の詩に心が震え、言葉にできない余韻が残ることがある。論理的な論説を読んでいても、あるフレーズに思わず胸を突かれ感情が動くことがある。このように読書の感動とは、論理的理解を超えたところで訪れる微かな揺らぎである。それはちょうど音楽を聴いたときに身体がぞくりとする感覚や、美しい景色を見たときに言葉を失う瞬間に似ている。文字という記号の列を追う行為が、なぜこのような生理的・情動的反応を引き起こすのか。それこそ読書という行為の不思議であり、同時に醍醐味でもある。
モナド的に見れば、読者の内面(モナド)の中で起こる震えは外から観察できない。読者自身にも厳密には把握しがたいほど捉え所のない感覚である。しかし確かにそれは存在する。まさに「Awai(淡い)」という言葉が示すとおり、強烈ではないが確実に感じられる微光のようなものだ。この震えは、テクストと読者の間のズレ(非可換性)から生じる創発そのものと言える。作者が意図しなかったかもしれない読者独自の解釈や連想が、読者の心にきらめきを生む。そのきらめきは淡いがゆえに尊く、読書体験を個人的かつかけがえのないものにしている。
ライプニッツは「同じ都市でも異なる方角から眺めれば全く異なる姿に見える」と述べ、各モナドがそれぞれの視点から世界を映し出す様を説いた (Leiniz’s Monadology)。読書でも同様に、各読者(モナド)は各自の視点からテクスト世界を映し出す。だからこそ、同じ本が読み手によって全く異なる感想を引き出すのだ。一冊の小説が、ある人には人生を変えるほど感動的であり、別の人には退屈に思えることさえある。この主観的な差異こそ読書の本質であり、そこには優劣も客観的尺度もない。各モナドにとって映し出された世界が全てであり、そこで感じた震えが真実なのである。
「Awaiモナド」としての読書者は、他者には直接共有できない内的体験を生きている。しかし文学や思想について語り合うとき、不思議なことに私たちは互いの内面体験を部分的に共振させることができる。全く同じ震えを再現はできないにせよ、「あの本のここに心打たれた」という会話を通じて、他者のモナドと自分のモナドが響き合う瞬間がある。これはライプニッツ的に言えば予定調和のようなものかもしれない。人間同士には窓がないけれど、もともと宇宙の調和によって通底しているからこそ、異なるモナドの中の世界像も部分的に重なり合うのだ (Leiniz’s Monadology)。読書会や批評の場で生じる共感や議論は、個々人の閉じた読書モナドが互いに接触し、震えの経験を伝播させ合う営みと言えよう。
さて、ここでソーカル論文にもう一度戻ってみよう。ソーカル自身はあのパロディ論文を「ふざけて書いた」わけだが、それが結果的に多くの人を巻き込んだ議論を引き起こし、学術界に震撼を与えた。そして振り返れば、ふざけて書いた本人でさえ、その出来事によって何らかの震えを経験したのではないだろうか。「まさか本当に掲載されるとは」と驚いたかもしれないし、自らの意図が現実になったことで苦笑や戦慄を覚えたかもしれない。つまり、悪戯として放たれたテクストが巡り巡って作者自身にも跳ね返りを与えたのだ。これは読書というより事件の帰結だが、構図としては興味深い。非可換なはずの贈与が、思わぬ形で送り手に影響を与えたとも言えるだろう。
もっと一般的な場合で言えば、作者が作品に込めた以上のものが読者の受容によって引き出され、それが評価や解釈としてフィードバックされることは往々にしてある。優れた作品ほど読者の創意に富む読解を誘発し、それが積み重なることで作品世界がさらに豊穣になる。作者自身が「自分の作品にこんな意味があったのか」と後になって気づかされる例も珍しくない。ここには読書という贈与の非可換性を超えて、ある種の贈与の拡張が生じている。贈り手が意図しなかった贈り物を、受け手が新たに生み出して逆に社会に贈り返す。もちろんそれは直接作者に返るのではなく、作品を媒介にして社会的対話の中で返されるのだが、その意味では読むことは創造的な還元不可能性とでも呼ぶべき性質を帯びている。
ここで本論のタイトルでもある「非可換な贈与としての読書体験」を総括してみよう。読むとは単なる情報の受容ではなく、意味の生成変換プロセスであり、送り手と受け手の関係は非対称であるがゆえに豊かな創造性が宿ることを見てきた。読書体験は一回一回が異なり、読者というモナドの内面で独自の宇宙を結晶化させる。それは淡い震えを伴う精神的な贈与であり、読む者の心を揺さぶって変容させる。ソーカル論文のエピソードは、負の例のようでいて、この現象を逆説的に照らし出す。すなわち、テクストに込められたものが何であれ、読むという行為自体が意味を生み出し得るという事実である。たとえそれが悪戯やナンセンスであっても、読者がそこに意味を見いだすならば、その読書体験は現実に震えをもたらす。
最後に言おう。読むことは贈与である。しかしそれは等価交換の計算に乗らない贈与だ。ページを繰るごとに、我々は未知の何かを受け取り、自らの内面を変えていく。その変容は震えとなって、我々の存在を微かに揺るがす。そうした震えの堆積が、人の思考を深化させ、感性を耕し、時には人生の方向さえ決定づけることがある。読書とは何か?——それは非可換な贈与の連鎖であり、一方通行のようでいて世界を巡り巡っていく不思議な循環である。意味とは何か?——それは縫い目から漏れ出し、震えの中で立ち上がるものだ。ページの上に直接書かれているのではなく、読者の心というモナドの中で投影と縫合を経て立ち現れる仮象であり、しかし我々にとってこの上なくリアルな実在なのである。
終章:ふざけて書いたものがわたしを震わせた
本論の旅路を振り返ろう。序章で提示した逆説、「本は届かないから、届く」という命題は、各章の考察を経て次第にその姿を明確にした。ソーカル論文という極端な例は、読書行為の本質にある非対称性と創造性を浮き彫りにした。作者の意図と読者の解釈は交わらず、だからこそ読書の場で新たな意味が紡がれる。これは非可換な贈与として定式化された。続く章では、射影幾何学のメタファーによって読書における意味の遠近法と視点依存性を説明し、縫い目の理論によってテクスト内部の揺らぎに対する批評的読解の意義を述べた。最後にAwaiモナドという概念で、読書者の内的体験の微細な震えと、それがもたらす変容を描写した。
読むとは何か?——それは他者から差し出された言葉を介して、自らの内面に異質な世界を立ち上げる営みである。読み手は送り手からの贈与を受け取りつつ、それを単に消費するのではなく、自分だけの意味へと作り変える。数学的に言えば可換ではない、返すことのできない片道の作用だが、その片道切符の旅路で出会うものこそ、読書の醍醐味である。
意味とは何か?——それは固定的な実体ではなく、読むという行為のプロセスから生まれる出来事である。意味はページ上にあらかじめ存在するのではなく、読者がテクストと出会う瞬間に縫い合わされる仮の結び目だ。そしてその結び目は常に震えており、絶えず解れうる。だが解れるたびに新たな結び目が結ばれ、意味は更新されてゆく。そうした絶え間ない生成変化こそが意味の正体であり、読書とはその生成変化に立ち会う行為なのだ。
「ふざけて書いたものがわたしを震わせた」という終章のタイトルは、一見謎めいているが、本論全体を通じて理解できるだろう。ソーカルがふざけて書いた論文が、多くの人々を怒らせ、笑わせ、そして考えさせたように、テクストというものは作者の手を離れると全く予期せぬ力を持ち得る。さらには、読むという行為を通じて、そのテクストが作者自身をも震わせる可能性がある。テクストとの出会いは常に他者との出会いであり、そこには自分を変えてしまう力が潜んでいる。私たちは往々にして本との出会いによって震わされ、人生の航路を変えるほどの衝撃を受け取る。それは著者の意図を超えたところでテクストが読者にもたらす贈り物であり、それを受け取った読者はさらに次の誰かへと思想や物語を受け渡していく。
換言すれば、読書を通じて生まれる震えは個人内に留まらない。批評や対話を介して社会へと伝播し、新たな創造や変革を促す力となる。人類の知的営為の歴史は、まさにテクストと読者の間の非可換な贈与が連綿と積み重なってきた歴史である。誰かの書いたものが別の誰かを震わせ、その震えがまた次の創造へと繋がる——。このダイナミズムがある限り、読むことの意味は尽きることがないだろう。
最後に改めて強調したい。読むとは、他者から与えられた言葉の贈与を引き受け、自らの内で新たな世界を生み、その震えを享受することだ。その震えは読者を変容させ、時に世界をも変えうる。不意に胸を打つ一行の詩、思索の地平を広げる一節の哲学、勇気を奮い起こさせる物語──それらはすべて読み手の中に宿り、震え、現実の行為や思想へと化肉していく。そしてそれこそが、書物というものが私たちに届く理由であり、また届かないからこそなおさら求めて頁を繰る理由なのだ。読書体験という非可換な贈与の中に、人間の自由と創造性、そして他者との連帯の可能性が宿っている。私たちは今日もどこかで本を開き、その贈与に身を委ね、淡い震えに心を預けているのである。
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