『アンサンブル』とは何だったのか
2025年冬、日本テレビが放った土曜ドラマ『アンサンブル』は、一見すると意欲的な試みだった。現実主義の女性弁護士と理想主義の新人弁護士がバディを組み、「恋愛トラブル裁判」に挑むという、法廷劇とラブストーリーを掛け合わせた企画である。
公式イントロダクションでは川口春奈×松村北斗の初共演作として「この冬一番の『リーガルラブストーリー』」 (イントロダクション|アンサンブル|日本テレビ)と銘打たれ、そのユニークなジャンル性が強調されていた。しかし皮肉なことに、タイトルが示す「アンサンブル(合奏)」とは裏腹に、出来上がった作品は異なる要素が最後まで調和せず、あちこちに縫い目の綻びが見えるまま進行し、構造的課題を露呈することになった。
「この冬一番のリーガルラブストーリー」という命題
まず指摘しておきたいのは、「この冬一番のリーガルラブストーリー」という謳い文句の不可思議である (イントロダクション|アンサンブル|日本テレビ)。
確か、冬クールに「法廷×恋愛」という同ジャンルの作品は他になかった(はず)。つまりこのキャッチコピー=命題は偽ではないのだが、それは同時に自分で用意した土俵で一人相撲を取っているようなものでもあった。競合不在のジャンルで「一番」を名乗る虚しさ——まるで誰もいない法廷で「我こそが一番の弁護士恋愛劇だ!」と声高に宣言しているような自己完結ぶりであり、ジャンルを独自に定義してそのトップに君臨するという構図自体、ある種の構造的矛盾を孕んでいた。
肝心の「リーガルラブストーリー」たる内容も、その謳い文句に見合う充実を示せたかは疑わしい。公式紹介によれば、「二人は様々な恋愛トラブル裁判に挑みながら、そこで得た『恋の教訓』を自分たちの恋愛にいかしてゆく」とある (イントロダクション|アンサンブル|日本テレビ)。
つまり各エピソードの裁判を通じて主人公たちが恋の教訓を学び、自身の関係にフィードバックするという構造が意図されていた。しかし実際には、その教訓が主人公カップルの関係深化に貢献した場面は限定的だったように思える。むしろ物語が進むにつれ、後述する元恋人や家族のゴタゴタといった要素が前景化し、毎回の「教訓」は影の薄い建前になってしまった。
結果、「リーガルラブストーリー」という触れ込み自体が空回りし、本来謳うべき法廷劇としての鮮度もラブストーリーとしての魅力も十分に引き出せないまま、作品は唯一無二なジャンル設定に取り残された印象を与える。
言い換えれば、『アンサンブル』は自ら築いたカテゴリーの中で完結してしまい、他の良質な法廷ドラマや恋愛ドラマと響き合うことなく孤立してしまったのである。その意味で「この冬一番」という言葉の虚しさは最後まで拭えなかった。
二人の母が象る奇妙な家族図式
物語が進むと、真戸原優(松村北斗)の出自に関わる意外な事実が明かされる。優の育ての母である有紀(八木亜希子)がずっと実母だと思われていたが、実はそうではなかったのだ。実母は別におり、ケイ(浅田美代子)という女性こそが優を生んだ母親だったというのである。
有紀は優にとって血の繋がらない養母だった—この急展開は、物語の家族関係図を根本から塗り替えるものだった。視聴者の頭の中に出来上がっていた親子関係の図式は崩れ去り、優=有紀という既定の母子の絆は一旦リセットを余儀なくされる。代わって現れたケイという実母の存在が、新たな母子関係の線(エッジ)を優との間に引き直す。まさに物語の基盤に「特異点」が挿入された瞬間であり、その構造的インパクトは大きい。
この母親入れ替わりのプロットは極めて異例であり、良くも悪くも本作の構造的特異性を際立たせた。優にとっての「母」が書き換わったことで、彼自身のアイデンティティや過去エピソードの意味合いも再解釈を迫られることになる。例えば、有紀から受けてきた愛情は何だったのか、ケイが長年姿を現さなかった理由は何だったのか——視聴者は突然突きつけられた新事実を踏まえ、物語序盤の出来事や人物描写をもう一度捉え直さねばならなくなる。
これはミステリ的な興味を喚起する反面、物語のトーンやテーマに対しては相当の揺さぶりとなった。もともと法廷ラブコメとして走っていたはずの作品に、血縁ドラマのヘビーな要素が割り込んできたのだから、物語の重心が大きくシフトしてしまうのも無理はない。
制作側の意図を推察すれば、この実母登場という展開は、後半の起爆剤として用意されたのだろう。停滞しかけた物語にテコ入れし、優・瀬奈・宇井の恋模様や家族関係に新たな緊張を与える狙いがあったに違いない。
実際、優の実母ケイの出現は彼を動揺させ、同時に瀬奈(川口春奈)との関係にも影を落とす。さらに有紀とケイという二人の母の対比は、「育ての親」と「生みの親」というテーマを浮かび上がらせもした。優を無償の愛で育ててきた有紀と、長年秘密を抱え姿を現さなかった生みの親ケイ。そこに、もう一組の親子—宇井修也(田中圭)とその娘・咲良—が絡んでくる。宇井はシングルファザーとして娘を育てているが、その裏には咲良の実母の存在がある(咲良の親権を巡るトラブルが描かれたように)。
つまり本作には、「育ての親」と「生みの親」という対比が二組存在していたことになる。優には有紀とケイ、咲良には宇井と彼女の実母。それぞれ血縁か育てかで立場の異なる“二人の親”がいる構図だ。
紙の上では、このように明確に異なるスタンスを持つ親子関係の並列は興味深いテーマを孕んでいる。血の繋がりを超えて何が親子を成すのか、といった普遍的な問いを描き出すポテンシャルがあった。しかし残念ながら、『アンサンブル』はそのテーマを真正面から掘り下げる余裕がなかったように見える。
二人の“母”の物語はあくまでサブプロットとして処理され、作品全体のテーマと有機的に結合するまでには至らない。結果的にこの母親入れ替わりの趣向は、構造を複雑化させこそすれど調和させるには至らず、作品の縫い目をさらに目立たせる結果になってしまった。
圏論的視点から見るドラマの可換図式
以上のように見てくると、『アンサンブル』の構成は、様々な要素が統一的なビジョンに収束していないことが分かる。ここであえて圏論(カテゴリー理論)の概念を持ち出し、このドラマの構成を抽象的に捉え直してみたい。数学的な枠組みを援用することで、物語構造の不整合を別の角度から浮き彫りにできるかもしれない。(圏・射・可換図式・自然変換といった専門用語が飛び出すが、奇をてらった冗談ではなく私は本気である)
そもそも圏論における可換図式 (commutative diagram) とは何か。 (可換図式 – Wikipedia)にある定義を引用しよう。「数学、特に圏論において、可換図式とは、対象(頂点)と射(矢、辺)からなる図式であって、始点と終点が同じである図式内のすべての道筋が合成によって同じ結果になるようなもの」である。
要するに、図の中でどの経路を辿っても同じ結末に至る状態——それが可換図式だ。これを物語に喩えるなら、複数のサブプロットや要素がどの順序で進行しても最終的には首尾一貫したテーマや結末に収束すること、と言い換えられるだろう。
『アンサンブル』が目指したのも、まさにそうした可換図式的な物語構造だったのではないか。各話には法廷での「恋愛トラブル」案件と、主人公二人のロマンス進展という二つの軸があった。エピソードごとに依頼人の恋愛問題を法廷で解決し、そこから得られた教訓が主人公たち自身の関係性にもフィードバックされる——そのような対応関係(関手的対応)が理想的には成立していたはずだ。
もし各エピソードの法廷劇から恋愛教訓への橋渡しが毎回きちんとなされていれば、それは物語全体として一種の自然変換的な構造になっていただろう。すなわち、「エピソード」というインデックスに対し、「その回の裁判劇の結末」を対応させる関手と「主人公たちの関係の変化」を対応させる関手があり、それらをエピソード毎に結びつける対応が常に整合的に成り立つなら、それは圏論で言う自然変換に他ならない。視聴者は毎回、サブストーリー(裁判)の結末とメインストーリー(恋愛)の進展とが響き合う心地よさを味わうことになるだろう。
だが実際の『アンサンブル』では、この可換図式が途中で崩れてしまったように見える。第1〜2話あたりでは、依頼人カップルの和解や決別から主人公たちが何かしら学ぶ描写もあった。ところが、宇井修也という元恋人の出現や優の実母騒動といった外在的要因が物語を席巻し始めると、各話の裁判劇と主人公たちの関係成長とのリンクは弱まっていった。
例えばあるエピソードで扱った訴訟のテーマ(信頼、赦し等)よりも、むしろ優自身の家族問題や瀬奈と宇井の関係進展の方がクローズアップされ、結果として「裁判の教訓→二人の恋愛」という当初の図式は崩れ、もはや可換には機能しなくなる。異なる経路で進む物語の要素が最終的に同じゴールに収束しないのだ。
視点を変えれば、本作では登場人物やプロット要素を「対象」、それらの間の因果関係や心情変化を「射」と見なすこともできるだろう。圏論において射の合成は重要な概念だが、『アンサンブル』におけるストーリー展開という射の合成はしばしば非可換、すなわち期待された結果に収束しないものだった。
ある出来事A(例えば依頼人の裁判勝訴)から出来事B(主人公たちの和解)への流れが、本来なら一直線に合成されて同じ結末(キャラクターの成長や関係強化)に至って欲しいところが、途中で全く別の出来事C(実母の乱入や娘の失踪騒ぎ)に枝分かれしてしまい、Bへの合成が無効化される——そんな場面が散見されたと言える。物語の射線が一本の太い筋となって収束せず、何本もの線が交差してはほどけていく様は、物語が可換図式を描けなかったことの表れだろう。
とはいえ、ここまで抽象的に語ってみると、逆に本作の奇妙さが鮮明になってくるのも事実だ。圏論を持ち出さないと読み解けないという事実自体、本作がいかに異質な構成を持っていたかを物語ってはいないだろうか。数学的厳密さはさておき、物語の諸要素が統一的なテーマに向けて可換に機能していなかったこと、それこそが『アンサンブル』最大の構造的課題だったのである。
“国民の義父”田中圭と父性の系譜
混迷する物語の中で、ある種の感情的支柱となっていたのが田中圭演じる宇井修也の存在だ。宇井は瀬奈の元恋人という立場で登場し、娘・咲良(稲垣来泉)を男手一つで育てている設定だ。彼は娘との時間を優先し、咲良の親権を巡って実母と対立する。このシングルファザーとして懸命に奮闘する姿は、作品全体の中では異色のヒューマンドラマ的要素であり、田中圭の落ち着いた演技も相まって奇妙な温かみを放っていた。
注目すべきは、田中圭がちょうど直前のクール(2024年秋)でも似たような“血の繋がらない子を育てる父親”役を演じていた点である。フジテレビ系ドラマ『わたしの宝物』において田中圭は、妻の不倫によって自分の娘だと信じていた子が実は他人の子だったと知ってしまう夫・宏樹を演じた (田中圭が体現してきた“父親像” 『わたしの宝物』では“ミリ単位の表情変化”を披露|Real Sound|リアルサウンド 映画部)。
DNA鑑定の結果、娘が自分の子ではないと判明するという衝撃的な展開に直面しつつ、それでも父親として苦悩し葛藤する難しい役どころだ。その機微を繊細に表現した演技は、各所で高い評価を受けた。その記憶も新しい中で迎えた本作『アンサンブル』でも、田中圭は続けざまに「実の娘ではない子を育てる父親」を演じたことになる。
ここまで続くと、もはや田中圭には“国民の義父”の称号すら与えたくなる。血縁を超えて子を慈しみ育てる父親像を体現させたら右に出る者はいない——そんな印象すら抱かせる連続した配役だ。もちろん偶然の巡り合わせだろうが、田中圭の持ち味である優しさと誠実さが、このような義理の父役によって際立っているのも事実だ。
宇井修也というキャラクターもまた、劇中では異質な存在でありながら、娘・咲良に向ける揺るぎない愛情によって視聴者の心を掴んだ。混沌とする物語世界において、宇井と咲良のエピソードは、一本筋の通ったヒューマンドラマとして機能していたと思う。
しかしその一方で、宇井の父娘物語は本作の主軸である「リーガルラブストーリー」からすると明らかにテイストが異なり、やはり縫い合わされたパッチワークの一片とも言える。田中圭の演技が光れば光るほど、彼の纏う空気が他の部分とは別次元であることが際立ってしまうのだ。
咲良の親権争いといった重めのプロットは、それ自体ドラマ一本になり得る濃さを持ちながら、『アンサンブル』内ではサブストーリーに留まる。そのため視聴者としては「この親子の行方をもっと見たい」と感じつつも、物語全体は別方向(優と瀬奈の恋や優の母騒動)へと進んでしまう歯がゆさがあった。言わば宇井親子の物語だけが単独で部分的に可換(感情的に筋が通ったまとまり)である一方、全体としては他の要素と交わらず不協和音を生んでいたとも評せるかもしれない。
それでも、“国民の義父”田中圭の存在感は、本作における数少ない救いだった。娘・咲良に向けるまなざし、必死に手を伸ばす姿、それらは物語の混線の中でひときわ真っ直ぐな愛情のラインとして輝いていた。田中圭は本作でも期待通りの優しい父親像を体現し、その演技によって視聴者に確かな感情の手がかりを提供してくれたのである。
協和しないアンサンブルが残したもの
こうして振り返ると、『アンサンブル』は野心的な題材と豪華なキャストを擁しながら、その構造の綻びゆえに真価を発揮できなかった作品だったと言わざるを得ない。恋愛裁判という軸は途中でブレ始め、「この冬一番」の触れ込みも虚しく、母親の入れ替わりやシングルファザーの奮闘といった要素が次々と縫い付けられた結果、生地は引き裂かれ、縫い目ばかりが目立つ仕上がりになってしまった。
それはタイトルが示す「合奏(アンサンブル)」というより、即興で寄せ集められたジャムセッションが最後までハーモニーを見出せなかったような印象さえ残す。
だが、全てが無意味だったわけではない。このドラマは奇しくも、自らの課題を通じて一つの教訓を示してくれたようにも思える。すなわち「ジャンルの融合はキャッチコピーだけでは成し得ず、物語構造の整合性が伴わねばならない」という、至極当然とも聞こえる教訓である。
法廷ドラマとラブストーリー、家族劇とコメディ、それぞれの要素間の接続が自然で可換であるよう丹念に組み上げてこそ、初めて真の“アンサンブル”が奏でられるのだろう。本作はその難しさを身をもって示したと言える。
「全力炒飯」というメタファー
本作の“綻び”の象徴として記憶に残るのが、物語中盤、松村北斗演じる真戸原優が、“全力”で中華鍋を振り、炒飯を作る場面だ。このシーンには、一種異様なまでの迫力があるが、そのあまりの脈略の無さに、多くの視聴者が度肝を抜かれたと思う。
この「全力炒飯」は、本作の不協和音を象徴する奇妙な「縫い目」と言えるだろう。各所に散らばる恋愛、法廷、家族ドラマの断片を、あたかもひと皿の炒飯で繋ぎ止めようとするかのような必死さがそこにはあった。
実際この辺りの物語では、妹のストーカー疑惑事件から、真戸原一家・川の字睡眠、謎の大宴会場日独商談(真剣に意味がわからない)まで、異なるトーンの出来事が怒涛のように押し寄せている。優が振るった中華鍋の中で、作品世界の様々な要素—ロマンスの緊張感、コミカルな日常、擬似家族的な温もり—が文字通り炒め合わされていたのである。
それは奇妙で滑稽な光景でありながら、本作が懸命に物語の綻びを繕おうとしていた象徴的瞬間でもあった。
そもそも炒飯とは、家庭では冷や飯や余り物をごちゃ混ぜにして新たな一品に仕立てる料理だ。優の全力炒飯は、散乱する物語の「余り物」をなんとか一つの皿にまとめあげようとしたメタファーだったのかもしれない。(根拠はないが)
一見笑ってしまうような場面ではあるが、鍋を振る松村北斗の真剣そのものの表情ゆえに、妙に胸に迫るものもあった。混ぜ合わせればひとつにまとまると信じて懸命に鍋を振るその姿には、本作の構造的問題と、それでも何とか物語を紡ごうとする彼の健気さの両方が滲み出ていたように思う。(どうでも良いが、制作陣は彼の演技力に頼りすぎである)
煙と湯気の立ちこめるキッチンで、優が必死に掻き混ぜたもの——それは本来交わるはずのない物語の断片たちであり、彼はそれらを一つの鍋で無理やりにでも混ぜ合わせようとしていた。その姿にこちらは思わず苦笑しつつも、同時に奇妙な愛しさを感じてしまう。作品全体としては調和し損ねた旋律たちが、あの瞬間だけはひとつのリズムを刻んでいたからだ。
結局、『アンサンブル』という作品自体が、タイトルの示すとおりひとつの「合奏」だったのだろう。ただしそれは和音にはならなかった。むしろ不協和音の連続であり、継ぎ接ぎだらけの旋律だった。
それでもなお、全力で演奏されたその音楽(ドラマ)には、どこか捨てがたい味わいが残っている。“この冬一番”のドラマではなかったかもしれないし、物語は完成されたハーモニーには至らなかった。それでも、縫い目だらけの物語から立ち上る熱気と情熱は、視聴者の胸にほのかな余韻を刻んだのではないだろうか。
不協和なアンサンブルの残した一抹の温もり。それこそが、全力で炒飯を作った松村北斗が届けてくれたものなのかもしれない。
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