深夜の応酬
先日、深夜にツイッターを眺めていたら、東浩紀さんが、自らの男性性に関して、ツイートを連続して投稿していた。
数年前なら、ぼくはこういうことは言わなかったと思う。むしろ男女比率など気にせず内容で判断すべきだと言ったと思う。態度を変えた原因は多層的で、意識が進んだということもあれば、警戒するようになったというものもあるが、核の核を言えば、僕自身が男性性に「疲れた」というのが大きいと思う。
— 東浩紀@ゆるく考える&新記号論 (@hazuma) March 7, 2019
それに対し、千葉雅也さんが、「怒り」を表明し、そのやり取りについて、話題になった。
男らしさからもう降りようというのも、LGBTの味方ですというのも、いまさら言ってるのであって、リベラル男のそういうのは、昔はそうじゃなかったのの「転向」なんですよ。僕は許さないからな。転向して良い人になりました、なんてぜってー認めてやんねーよ。
— 千葉雅也『意味がない無意味』発売中 (@masayachiba) March 7, 2019
東さんと千葉さんは、どちらも、現代思想の研究で著名な哲学者である。
東さんは、ジャック・デリダを論じた『存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて』で第21回サントリー学芸賞を受賞した後、『動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会』で、日本の「オタク」を巡る生を扱い、その名が一躍世間に知れ渡る。
千葉さんは、ジル・ドゥルーズを専門とし、『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』で、 第4回紀伊國屋じんぶん大賞、第5回表象文化論学会を受賞した後、一般読者向けに刊行された『勉強の哲学-来たるべきバカのために』がベストセラーになった。
この両者の間に、鋭い対立をもたらしたもの、それは「家族」だった。
沈黙の後に
この深夜の応酬が行われた後、ゲンロンカフェで、千葉さんの『欲望会議』と、三浦瑠麗さんの『21世紀の戦争と平和』の刊行を記念した、対談イベントが開催された。
このイベントは、チケットが非常に入手困難だったため、私はニコニコ動画での放送を視聴した。
イベントの最初で、東さんはほとんど会話に参加していなかった。本人は「調子が悪い」と述べていたが、おそらく、千葉さんとのやり取りが、影響していたのではないだろうか。
だが、議論が進む中で、「家族」が話題に挙がった瞬間、東さんと千葉さんとの考え方の違いが鮮明に浮かび上がった。
「家族」の歴史
東さんは、「時間性」を問題にしていた。権力に抵抗してゆく際に、一時的に「連帯」して、その直後に「解散」するような集合体。そのような時間性を帯びないものが、果たして有効に機能するのだろうか。
この問いは本質的であり、その答えとして東さんが「家族」という概念に辿り着いたのは、必然的だったとも言える。
ハイデガーに代表されるように、哲学者は、歴史的に「死」に注目してきた。だが、私たちが「いまここ」に在るのは、言うまでもなく、生殖による結果である。人間が「生」を無視することはできない。
私たちは、「家族」を通じて世界へと産み落とされる。そして、私たちが家族「である」ことの背景には、つねに、家族「になる」ことの歴史がある。
東さんは、この「家族」という言葉を、敢えて使い続けることで、それを脱構築しようと試みる。
「系譜」からの逃走
東さんは終始、言葉を慎重に選びながら、自らの考えを紡ぎ出していた。
「家族を持つ男性異性愛者は、発言しにくい」と東さんは言う。自分自身は、「男性」の「異性愛者」であるという出自を逃れられない。その東さんが発する言葉は、行為遂行的に「規範性」を帯びる。
千葉さんは、その「規範性」に敏感に反応した。千葉さんは、共同体を「家族」として名指すことに、直観的に抵抗を示す。このイベントの中で、千葉さんは最後まで、東さんと完全には軌を一にしなかった。
「家族」という概念には、異性愛的生殖による父権的な「系譜」の維持が含まれる。それに対して、千葉さんは疑問を解消できない。
子供の哲学
今日、千葉さんはツイッターで、自身の考えを連続して投稿した。彼の率直な言葉に、私は、心の奥底にある部分が、固く握り締められるような感覚を得た。
独身者は決して、「家族」の磁場から自由である訳ではない。LGBTが「カムアウト」することに伴う苦しみは、なぜ実在するのか。
同性愛者には、家族概念の抑圧性をなしにして家族をアップデートしましょうというのは安易に聞こえる。母の顔、父の顔、何を言っていいか言わないか。家族は理解し合わなくていいというドライな家族観もあるだろうが、ならどうしてこんなに同性愛たちは家族へのカムアウトでつらい経験をしているのか。
— 千葉雅也『意味がない無意味』発売中 (@masayachiba) March 11, 2019
「家族」とは異なる関係性の概念を発明すること。「親」の立場から語る東さんに対して、千葉さんはそれを「子供の哲学」と呼んだ。
同性愛者が、異性愛家族によって生み出され育てられるとき、多くの場合、やはり異性愛家族を形成するようプレッシャーをかけられているということ。そこから、家族とは別の関係、を我々は想像するのだが、それはまた単純に独身者的なのでもないのだ。我々は「発明」を求める。フーコーが言ったように。
— 千葉雅也『意味がない無意味』発売中 (@masayachiba) March 11, 2019
東さんは、子供の立場の哲学から親の立場の哲学への転換を言うが、子供の立場の哲学というのは、同性愛者にとってきわめて深刻なもので、涙なしには取り組めないものである。僕は、子供の哲学を続ける。
— 千葉雅也『意味がない無意味』発売中 (@masayachiba) March 11, 2019
もうひとつの「かたち」
私は、千葉さんに対して、当事者として、特別な想いを抱いている。ポリティカル・コレクトネスを批判的に論じ、世界をクィアに眼差すその視線は、他の人にはない。
『新潮45』で杉田水脈論文を巡る騒動があった際も、私は千葉さんの意見に深く頷いていた。(千葉雅也&三浦瑠麗 『新潮45』杉田水脈論文に隠された本当の意味)
いつか千葉さんは、「家族」ではない、私たちの「かたち」を、発明するのかもしれない。
私には、「家族」になれなかった人がいる。その人と私は、何になら、なれたのだろうか。
この問いに対して、千葉さんに答えを期待するのは、望みすぎだろうか。
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