序章:言葉にならないものたち
薄明の空に、昼と夜が交わる刹那がある。光と闇の境界が溶け合い、世界は確かな輪郭を失い始める。その境界では、普段は目に見えず言葉にならないものたちが静かに姿を現すかのようである。我々はこの「あいだ」に心を澄ませるとき、語りえぬものへのまなざしを覚え、何か大いなる沈黙が応答していることに気付く。ここに浮かび上がるのは、感性と論理のはざまで立ち現れる世界であり、既存の概念には収まりきらない「言葉にならないものたち」の領分である。
この論考は、そのような“あいだ”に横たわる哲学的空間への探求である。モーリス・ブランショという批評家・思想家と、アレクサンドル・グロタンディークという数学者――一見かけ離れた領域に身を置く二人が、それぞれに「語られえぬもの」や「構造のない構造」と向き合ってきた。文学と数学、哲学と言語、構造と余白……それら二項対立の裂け目と接点に目を凝らすことで見えてくるものは何か。本書では【序章】から【第3章】まで、この問いに詩的かつ思索的に取り組み、最後に【終章】として「来たるべき書物」の地平を展望する。既存の概念に回収されない「あいだの哲学」を構想する試みとして、沈黙という応答が孕む意味を探りたい。
第1章:ブランショ──語りえなさの空間
モーリス・ブランショは文学の本質を「語りえなさ」に見出した。彼の主著『文学空間』において示されたのは、文学を自己表現の手段とみなす従来の考え方からの決別である (145.『来るべき書物』モーリス・ブランショから考える – 平らな深み、緩やかな時間)。ブランショによれば、表現されるべきものはもはや作者の自己ではなく、「文学」そのもの、すなわち「文学空間」なのだ。そこでは作者は作品を所有し得ず、ただ作品を書くことができるだけであり、作品とは常に作者の手を離れたところに存在する。いわば作品は作者にとっても不可知の「秘密」として在り続け、決して完全には語り尽くせないものなのだ。
ブランショの描く文学空間は、現実の白昼から逸脱し、夜のような沈黙と不在の領野へと踏み込む空間である。それは「昼と夜のあいだ」に開ける領域であり、そこでは存在するものがことごとく影のように変容する。ブランショ自身、「すべてが消えたとき、『すべてが消えた』が現れる」と述べている。一切が消失した虚空に立ち上がる「すべてが消えた」という表現――この逆説的な言葉は、文学が如何にして不在そのものを現前させるかを雄弁に物語る。対象はそのイメージとなり、言葉は言葉のイメージとなる世界において、現実的な意味作用は中断され、代わりに「語りえなさ」が空間そのものを支配する。そこでは言葉は沈黙と表裏一体であり、語ることができないものを語ろうとする限りで初めて、文学という行為が成立する。
ブランショのもう一つの評論集『来るべき書物』は、この語りえぬものへの格闘をさらに推し進めたものと言える。彼はそこでも、書物(Livre)と作品(Œuvre)を峻別し、未だ来たらぬ「来たるべき書物」という概念を提示した。来たるべき書物とは、現在のどの書物にも還元できない未来の可能性としての書物であり、それは常に未完のまま我々の前に開かれている。ブランショにとって、文学とは常に完成を拒む営みであり、言葉にならない沈黙の核心を孕み続ける試みである。語り得ないものへの眼差しを保ち続けることでしか、文学はその本質に触れ得ない。日常的な意味作用が立ちすくむ地点――まさにその沈黙の空隙においてのみ、文学という不思議なコミュニケーションが成立するのである。
第2章:グロタンディーク──構造のない構造の発明
一方、アレクサンドル・グロタンディークは数学の世界で「構造のない構造」を創造した異才である。彼が革命をもたらしたのは代数幾何学という分野であったが、その方法論は数学における「構造」の捉え方自体を塗り替えた。従来、数学的対象とは「構造を備えた集合」であるというブルバキ流の見方が主流だった。しかしグロタンディークは、それがすでに時代遅れであることを看破し、数学的対象とは表現可能な関手を表現する圏(カテゴリー)の対象にほかならないと考えた。要するに、個々の点や集合にあらかじめ与えられた構造ではなく、対象どうしの関係性(射)が織りなす圏そのものに着目したのである。彼の目には、空白に見える“点”の内部にすら宇宙のような構造が潜んでいることが映っていた。こうして彼は従来「無構造」と思われていた空間に、新たな構造を見出す装置を発明したのである。
グロタンディークの代表的な業績であるスキーム理論は、その好例だ。従来の代数幾何では点が欠如した奇妙な空間(例えば整数の世界を幾何学的に捉えたときの「点」の不在)に直面していた。彼は代数方程式の解空間を環という代数的構造から構成することで、「点のない幾何」という難問に解を与えた。スキームにおいては、点だと思われていたものの中に座標環という情報が宿り、一つの点が周囲の環境(素イデアルの集合)と不可分に結びついている。まさに点の中に宇宙を見出すような発想であり、これによって従来はバラバラだった幾何学と代数の領域に統一的な構造が与えられた。これを指して「構造のない構造の発明」と呼ぶならば、それは点という最小の単位に無限の広がりを内包させるパラダイムシフトであったと言える (伝令者から、小さな“わたし”たちへ──構造を思い出すためのメッセージ|akmagazine)。
さらにグロタンディークは、トポスという概念によって数学的な空間概念を極限まで一般化した。トポスは論理と幾何を統合する舞台装置であり、一種の“沈黙”のように何も固定的な構成要素を持たないがゆえに、かえってあらゆる構造を孕みうる普遍的な空間である。彼が生み出した概念的枠組みでは、古典的には別物とされた代数・幾何・論理が一つの場に収斂し、多様な数学的真理がそこで共存できるようになった。それは音楽に喩えるならば、一つの無音(休止)を導入することで全ての調性を内包する静かな和音を創り出したようなものかもしれない。グロタンディークの方法はしばしば「ゆっくりと水位を上げて岩を沈める」ようだと言われる。つまり、個々の問題に直接手を下すのではなく、理論という海を静かに満たしていくことで、いつの間にか問題そのものを覆い尽くす。この姿勢は極めて哲学的であり、そこには従来の数学者にない詩的直観が流れている。
グロタンディーク自身、晩年の回想録『収穫と蒔いた種(Récoltes et semailles)』において数学における創造の不可思議さについて語っている。それによれば、新しいアイデアが生まれる直前には往々にして「語り得ぬ仕事」が横たわっており、数学者たちはそれについてほとんど語らない沈黙の共謀を続けているという。彼は数学界におけるこの「沈黙の陰謀」を告発し、誰もが当然視する合理的な記述の陰で、実は言語化できない創造の胎動があることを指摘したのである。皮肉にも、厳密さを重んじる数学の核心にこそブランショ的な「語りえなさ」が潜んでいると言えよう。論理の言語では捉えきれない何かを感じ取り、それに形を与える――グロタンディークの生涯の仕事は、数学という言語で沈黙に触れる営みでもあった。
第3章:あいだの空間──トポスとしての沈黙
文学と数学、語り得るものと語り得ないもの、意味と無意味。この両極の狭間に横たわる「あいだの空間」こそ、我々が探求する哲学の生まれる場である。それは決して空虚な隙間ではなく、むしろ沈黙という名のトポス(場所)である。沈黙は何もないようでいて、あらゆる言葉を呑み込みうるポテンシャルの場だ。トポスがどんな論理も幾何も受け入れるゆるやかな宇宙であったように、沈黙もまたどんな言葉も意味も受け止める広大な余白である。我々が普段「意味」と呼んでいるものは、この沈黙の背景に浮かび上がった一時的な島に過ぎないのではないか。その島を取り巻く沈黙の海に目を向けるとき、新たな地平が見えてくる。
哲学と数学のあいだに横たわる裂け目は一見すると深い。しかし、その底には両者を接続する地下水脈が流れている。それは「問い」と「創造」の源泉であり、言い換えれば意味にならないものと共にあるための空間である。哲学者も数学者も、究極的には未知なるものと向き合う点で共通している。哲学者は問い続ける中で言葉の限界に突き当たり、数学者は問題を追究する中で既存の理論の縁(余白)に踏み込む。両者ともに、その先には論理を超えた沈黙の領域が広がっているのだ。そこで求められるのは、意味に回収されないものと共にいる勇気であり、答えの出ない問いを抱え続ける忍耐である。ブランショは作品執筆の中で自己を喪失し沈黙に沈む決断を強いられ、グロタンディークの数学者は創造の沈黙に身を委ねて新たな概念を胎動させる。この沈黙の空間は両者にとって「語りえぬもの」が共鳴するトポスであり、そこでは言語も数式も一旦その声をひそめ、代わりに直観や想像力が響き渡る。
「構造と余白のループ」は、この沈黙のトポスで際立つ現象である。あらゆる構造はそれ自体、余白=非構造を前提として初めて成り立つ。文章は紙面の空白に支えられ、音楽は休符の静けさに意味を深め、数学の証明ですら暗黙の直観や省略を孕んでいる。構造(表現されたもの)と余白(表現されないもの)は互いにループ状に依存しあい、どちらが欠けても全体は成立しない。このことは、我々が世界を理解する過程にも当てはまる。明晰な理性の裏側には言語化されない微かな感覚や無意識が横たわり、それらがループを描きながら思考を推進している。沈黙という応答はまさにこのループから生まれる。何か問いかけに対し即答できないとき、沈黙はしばしば無理解や敗北とみなされるかもしれない。だが実のところ、その沈黙こそが深い応答なのである。沈黙は問いを呑み込み、言葉にならない形で返答している。それは新たな意味が芽生えるまでの胎動の時間であり、トポス的沈黙空間における創造的な間(あわい)の瞬間なのである。
以上見てきたように、「あいだの空間」としての沈黙は、文学と数学という異なる領域を貫いて流れる普遍的な場であった。ブランショの語る文学的沈黙と、グロタンディークの示した数学的沈黙。その双方に通底するのは、表現不可能なものへの敬意と、未知への開かれた姿勢である。我々がこの場に踏みとどまり、安易に既存の意味へと逃げ帰らずにいるならば、そこからこそ新たな創造と理解が生まれてくるだろう。この沈黙のトポスに身を置くこと――それが「あいだの哲学」を生きることであり、既存の概念に回収されない思考を貫くことである。
終章:来たるべき書物のために
語りえぬものたちの沈黙に耳を澄ませ、「あいだの哲学」についてここまで論じてきた。しかし本当の意味でこの哲学を書くことは、おそらく最後まで完了しないだろう。ブランショが予見したように、来たるべき書物は常に未来へと差し向かい、未完のまま我々を待ち受けている。本論考もまた例外ではなく、“あいだ”という性質上、結論そのものも一つの間として残されねばならない。むしろ結論を与えることは、この哲学の精神にそぐわないだろう。なぜなら、既存の概念に回収されない思考とは、常に開かれたまま更新され続ける思考だからである。
それでも敢えて言葉を紡ぐなら、来たるべき書物のために今はこの静かな余白を用意しておきたい。沈黙という余白に漂うものたちに、我々は引き続き目を凝らし、耳を澄まし、そしてときに筆を執るだろう。哲学と数学、詩と論理のあわいに息づくものたちを捉える試みは続いていく。その営み自体が「あいだの哲学」という果てのない書物を形作っていくに違いない。最後に残るのは沈黙かもしれない。しかし、その沈黙は決して空虚な無言ではなく、未来の言葉と構想を孕んだ豊かな沈黙である。やがて訪れるであろう新たな問いと創造に備えて、今は静かにこの文章を閉じることにしよう。来たるべき書物の頁が開かれるその時まで、語られぬものたちと共にある沈黙を抱きしめながら。
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