読むことのトポス論──意味生成の幾何学と詩的逸脱

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序論:読むとは何か、織り合わせることか

「読む」という行為は、私たちの日常に深く浸透し、その当たり前さゆえに問い直されることが少ない根源的な営みです。しかし、ページを捲るたびに私たちの内面に起こる意味の生成プロセスは、一種の魔法にも似ています。それは単に文字を情報として受け取る以上の 対話 です。小説家マーク・ハッドンは「読書とは対話である。すべての本は語りかける。しかし優れた本は耳も傾けるのだ」と述べ、読者とテクストのあいだに双方向のコミュニケーションが生まれていることを指摘しています。また「テクスト(text)」という語がラテン語の「織る(texere)」に由来し、本来「布」を意味していたことも示唆的です。タイポグラフィの名著『The Elements of Typographic Style』によれば、古代の書記たちは 思考を糸に、物語る者を紡ぎ手に 喩え、十分に練達した書記たちの作る滑らかな書物のページを「textus(布)」と呼んだといいます。詩人とは言葉の織り手であり、読者は織りなされた布に触れることで新たな肌触りの世界を感じ取る――このような比喩は、読むことの本質を直観的に物語っています。

では、この「読む」という魔術にも似た営みを、現代数学の言葉で厳密に記述し直すことはできるでしょうか。本論文は、圏論 (category theory) における構造――層 (sheaf)、サイト (site)、ファイバー (fiber)、プルバック (pullback)、トポス (topos) 等――を道具立てとして、「読むこととは何か」という問いに挑みます。その中で、数学的厳密さと詩的逸脱を交差させながら、読む行為の本質を再定義していきます。

まず、第1章では意味を層として捉える理論を展開します。テクストから立ち上る意味の断片を局所的データと見なし、それらがどのように全体的意味へと貼り合わされるか(グルーイングされるか)を層の公理になぞらえて考察します。第2章では、俗に「文章を読んでいて 目が滑る」現象、すなわち文字を追っているのに内容が頭に入らない経験を取り上げ、グルーイングの失敗として説明します。つまり局所的な理解が互いに齟齬をきたし、全体として統合されない状態です。第3章ではプルバック(引き戻し)という圏論概念を援用し、読者ごとの意味生成――同じテクストが読者の文脈に応じて異なる意味を生む仕組み――を図式的に記述します。第4章では誤読と曲率のアナロジーに踏み込みます。これは幾何学でいう空間の曲率になぞらえ、解釈の歪み(誤読)が読解空間にどのような「曲がり」を生むかを考える試みです。第5章では共感という自然変換という視点から、物語の登場人物への感情移入や他者理解がどのように読者とテクストのあいだのマッピングとして表現できるかを検討します。第6章では読解の舞台そのものをトポス(論理と集合的構造を兼ね備えた圏)として捉え、読解空間全体の性質を概観します。最後に終章として、第7章でAIと未来の読書体験に言及し、人工知能が読み書きのプロセスに介入しつつある現在、そして未来において読書体験がどのように変容しうるかを展望します。

以上の構成に沿って、具体例や詩的引用、図解も交えながら「読むこと」の理論を織り上げていきます。数学という縦糸と文学という横糸で、未知の織物を織るように、早速、意味の層理論の世界へと分け入っていきましょう。

図1: 色とりどりの糸(ミシン糸)の束。読書における意味の生成は、様々な色の糸を織り上げて布(テクスト)を作るようなプロセスに喩えられる。文章という「糸」を局所的に読み解き、それらを全体として滑らかに繋ぎ合わせていくことで、初めて一枚の布としての意味が立ち現れる。

意味の層構造:局所から全体へ

まずう、テクストの意味を 層 (sheaf) として捉えることから始めましょう。層とはもともと代数幾何や位相幾何で使われる概念で、直観的には「空間上の各部分(開集合)に局所データを割り当て、それらが適切に継ぎ合わさることで全体のデータとなる」ような構造を指します。例えば位相空間$X$上の実数値連続関数全体は典型的な層の例で、各開集合$U$にその上の連続関数の集合を対応させ、より小さい開集合への制限(restriction)が常に定義されています。ポイントは、複数の局所的データ(関数)が重なり合う部分で一致していれば、それらを一つの大きなデータ(より大きな領域上の関数)にグルーイング(貼り合わせ)できるという性質です。逆に言えば、重なり部分で矛盾のない局所情報からは一意的に大域情報が再構成できるのです。この局所-大域の対応関係こそ層の本質です。

では、テクスト上の意味の分布を考えてみましょう。テクスト全体を空間$X$とみなし、その部分(例えば章・節・文・句などの単位)を開集合$U_i$と捉えます。それぞれの部分$U_i$ごとに読者が掴み取る局所的な意味の断片をデータとします。この割り当てが層であるとは、どの部分同士をとっても重なる領域で意味が矛盾なく一致していれば(理解が繋がっていれば)、それらは全体として一貫した一つの意味解釈に纏め上げられる、ということです。言い換えれば、読書とは部分部分で得られる理解を突き合わせ、矛盾なく全体像を再構成する作業だと見做せます。それゆえ優れた文章ほど、読者は細部に散りばめられた手がかりをあとから全体として「そういうことか」と貼り合わせ、整合的な解釈を得ることができます。

数学的な層の具体例になぞらえて、このプロセスをもう少し噛み砕いてみましょう。たとえば、実数直線上に定義された「区間ごとの直線(一次関数)」も層です。これは直線(1次関数)という局所データを各開区間に割り当てる層で、異なる区間上の直線同士が重なり部分で食い違うと、全体として繋がった一本の直線にはなりません 。逆に、区間ごとの線分が重なりでピタリと継ぎ合わさるとき、それらは“大域的”には一本の直線(グローバルセクション)になります。このように局所的な条件(重なり部分での一致)から大域的な結果(全体を貫く直線)が生まれるのが層の妙味です。読解においても、文章の各部分で得られた意味が前後脈絡で噛み合えば、読者の頭の中に統一的な解釈が形成されます。あたかもテクスト全体にわたる一本の筋が通ったように。

ここで強調したいのは、層における「貼り合わせ(グルーイング)の公理」が読解プロセスのアナロジーとして有効だという点です。層の公理では「互いに重なり合う部分上で一致するような局所セクションがあれば、それらは一意に大域セクションに纏まる」と規定されています。読解に置き換えれば「文脈上矛盾しない理解の断片同士は、一つの首尾一貫した解釈に収束する」ことを意味します。例えば推理小説を読む際、序盤の手掛かりと中盤の伏線と終盤の真相が全て噛み合うとき、読者は散在していた情報を統合し、事件の全貌を理解します。それはちょうど層において、小さな開集合ごとに定義された関数たちが重なりで一致して一つの関数に繋がる状況に相当します。

以上のように、読むこと=意味の層的構造を辿ることと見做すことで、局所から全体へ意味を統合するメカニズムを定式化できました。だが現実の読書では、必ずしも常に滑らかに意味がグローバルに纏まるとは限りません。次章では、層の貼り合わせが上手くいかないケース──読解の破綻や「目が滑る」現象──について考えてみます。

目が滑る…グルーイングの失敗

難解な文章や専門的すぎる論文を読んでいるとき、あるいは疲労で集中力を欠いているとき、誰しも「文字を追っているだけで内容が頭に入らない」という経験をしたことがあるでしょう。日本語で俗に「目が滑る」と表現されるこの現象は、先の層理論になぞらえるとグルーイングの失敗として説明できます。すなわち、局所的には辛うじて読めている(単語や短いフレーズの意味は一応わかる)が、それらが前後関係で繋がらず、コンテクスト上の整合性が取れないために、全体の意味像が立ち上がらない状態です。層の言葉で言えば「重なり合う部分で意味が一致していない」ために、一貫した解釈(グローバルセクション)が存在しない状況です。

心理学・認知科学においても、読解には局所的な結束(local coherence)大局的な一貫性(global coherence)の両方が必要だとされています。読者は通常、文章の各文や段落を直前の内容と結び付け(ローカルなつながりを確保し)つつ、物語全体や論旨全体の中で辻褄を合わせよう(グローバルな統一性を保とう)とします。しかし文章があまりに難解だったり、論理の飛躍が大きかったりすると、読者は直前の内容との繋がりを見失い、理解が宙に浮いてしまいます。いくつか文を読み進めても、それぞれがバラバラに感じられ、いつの間にか「何の話をしていたのだっけ?」となってしまうのです。このとき読者の頭の中では、局所的な意味断片同士の互換性(compatibility)が失われていると言えます。まさに層のグルーイング条件が満たされていない状態であり、その結果「意味の層」が崩壊して、部分的な理解も霧散してしまうのです。

数学的な比喩をさらに具体化してみましょう。前章で述べた「区間ごとの直線の層」の例では、隣接する区間で直線の値が合わない場合、もはやそれらを繋げて一本の滑らかな線を描くことはできません。線分同士が上下に食い違い、途切れ途切れのギザギザした形になるだけです。読書において「目が滑る」ときも同様に、断片的には意味の線が見えていてもそれが先へ先へと一本の筋として繋がらず、点線のように途切れてしまいます。すると読者の認知は次第に負荷に耐えきれなくなり、文字は見えていても意味の線を追えない状態に陥ります。これは読解プロセスの失敗であり、層の言語では「一致条件を満たさないローカルセクションの集合には対応するグローバルセクションが存在しない」状況だと言えるでしょう。

テクスト側の要因だけでなく、読者側の要因(疲労や注意力の欠如)も「目が滑る」現象には影響します。どんなに論理的にまとまった文章でも、読み手の側が前の文脈とのつながりを保持できなければ意味は霧消します。これはまるで、せっかく一貫した関数(解釈)が存在しても読者がそれを「検出」できない状態とも言えます。層の定義上は存在するグローバルセクションが、読者という観測者には見いだせないのです。

このように、「目が滑る」という主観的体験も層・グルーイングの枠組みで捉え直すことで、局所的理解の不整合という客観的現象として表現できます。読解モデルにおいては、テクストを開集合に分解し、読者の理解をローカルセクション${s_i}$の族${s_i \in \mathcal{F}(U_i)}$と見做すなら、目が滑る状態とは${s_i}$が互いに矛盾した断片解釈になっている($s_i$と$s_j$が$U_i \cap U_j$上で一致しない)ということに他なりません。その結果、全体にわたる意味の統合${s\in \mathcal{F}(X)}$が存在しないため、読者は意味を掴めないまま文字だけを辿ることになります。

以上、ここまで、読解における失敗の一形態を層理論になぞらえて分析しました。次の章では、同じテクストであっても読者によって意味が異なるという現象を捉えるために、圏論の プルバック (pullback/引き戻し) 概念を導入します。読むという行為が、テクストと読者のあいだでどのように情報をやり取りし、新たな意味を生成するのかを図式で表現してみましょう。

プルバックとしての読解:読者ごとの意味生成

文学理論や解釈学では、テクストの意味は読者によって共同構築されるとしばしば論じられます(いわゆる読者反応批評やロラン・バルトの「作者の死」以降の議論など)1。数学の言葉を借りれば、意味とはテクストと読者の相互作用によって引き起こされる写像のようなものです。圏論でいう プルバック(引き戻し)を用いると、この構造を直感的に記述できます。プルバックは二つの射(写像)を最も汎化された形で「合流」させる普遍的な構成であり、集合の圏においては以下のように具体的に与えられます:

  • ある集合$X$から$Z$への射$f: X \to Z$と、集合$Y$から同じ$Z$への射$g: Y \to Z$が与えられたとき、そのプルバック$P = X \times_Z Y$は
    $\displaystyle X \times_Z Y = {(x,y)\in X\times Y \mid f(x) = g(y)}$
    という部分集合(ファイバー付き直積)として表される。要するに、$X$の要素$x$と$Y$の要素$y$で、$Z$上で像が一致する組だけを集めた集合です。

これを読解の状況に当てはめてみましょう。まずテクストを一つの圏的対象とし、読者(の持つ知識や文脈)を別の対象とします。それぞれから意味の空間(解釈が着地する概念の集合)への射を考えます。つまり、テクストから意味への射$f: \text{Text} \to \text{Meaning}$と、読者の内的文脈から意味への射$g: \text{ReaderContext} \to \text{Meaning}$を想定します。前者$f$は「テクストが本来的に含みうる意味の集合」を与え、後者$g$は「読者が事前に持っている知識・価値観などから立ち現れる意味の射程」を与えるものと考えられます。両者のプルバック$\text{Text} \times_{\text{Meaning}} \text{ReaderContext}$は、互いに意味空間で対応する組$(\text{テクスト断片}, \text{読者の文脈要素})$からなる集合となります。この要素こそが、その特定の読者にとってテクストが持つ具体的な意味を表現していると解釈できます。言い換えれば、読解によって得られる具体的な意味とは「テクスト側のポテンシャルな意味」と「読者側のポテンシャルな意味」の合流(fiber product)なのです。

より直観的に説明してみます。同じ本を読んでも、読む人によって解釈や感じ取るメッセージが異なるというのはよく知られた事実です。例えば、歴史小説を専門家が読めば史実との照合という意味が生じ、詩人が読めば隠喩表現の美しさに心を動かされ、学生が読めば単なる課題図書の知識として処理するかもしれません。このように読者のバックグラウンドや関心に応じてテクストの意味内容が変容する現象を、プルバックで考えるとすっきり理解できます。専門家・詩人・学生といった各読者$Y_i$は、それぞれ意味空間$Z$への異なる射$g_i: Y_i \to Z$を持っています。一方でテクスト$X$は一つですが、その中には多面的な意味の可能性が潜んでおり、意味空間への射$f: X \to Z$は一意ではなく多義的でしょう。しかし各読者とテクストの組み合わせごとに、意味空間で合致する成分が生まれているはずです。それがプルバック$X \times_Z Y_i$の元であり、各読者にとっての固有の読み(解釈)に対応します。専門家にとっての解釈$(x, y_{\text{prof}})$、詩人にとっての解釈$(x, y_{\text{poet}})$、学生にとっての解釈$(x, y_{\text{student}})$はそれぞれ別物ですが、いずれもテクスト$x \in X$と読者コンテクスト要素$y \in Y_i$のペアとして特徴付けられます。

ここで重要なのは、この構造が普遍的性質を持つことです。プルバックは「与えられた射$f, g$を満たす最大(最も一般)な引き戻し」として特徴付けられ、その普遍性ゆえに他のあらゆる解釈パターンから一意の射が$P$に写り込んできます。読解においても、実は読者とテクストの相互作用から生まれる具体的な意味というのは、双方の要素を可能な限り一般的かつ矛盾なく組み合わせたものだと言えます。読者はいくら自分勝手に解釈しようとしても、テクスト側の制約(文字通りの意味や文脈)から大きく外れることはできません。一方でテクストがどれほど明確に書かれていても、読む人の知識や感受性が皆無では意味は立ち上がりません。結局、その読者とそのテクストの組み合わせで取り得る最大限の意味の交差が実現するとき、それが具体的な「読解」という結果になるのです。これを圏論の言葉で表現すれば「可換平方を作る任意の解釈図式は、このプルバック図式に一意に射を持つ」 ということになります。数式で書くと難解ですが、要はテクストと読者の交わりが生む意味は唯一無二であり、他のどのような経路を辿っても結局それに行き着くということです。

このプルバックモデルはまた、読者が変わればプルバックも変わることから、解釈の相対性多様性を自然に説明します。ある読者にとっては存在したプルバックの元(意味)が、別の読者にとっては存在しない(意味を見いだせない)場合もあります。例えば高度な専門知識$y_{\text{prof}}$が無ければ見えない意味$(x, y_{\text{prof}})$もあるでしょうし、逆に子供の純粋な感性$y_{\text{child}}$を持つ者だけがすくい取れる物語の魔法$(x, y_{\text{child}})$もあるでしょう。プルバックという形式は、このような読み手ごとの意味生成を「意味空間で像が一致する組」の集合として示し、全ての読解パターンを統一的に眺める視点を与えてくれます。

さて、ここまででテクストと読者の関係性を圏論的に捉え直し、各読解がプルバックの産物であることを見てきました。次の章では、読解における解釈のズレ誤読を幾何学的な 曲率 (curvature) になぞらえて考察します。異なる解釈同士の距離感や、読み手の先入観が解釈に与える歪みを、空間の曲がり具合である曲率に譬えてみるのです。

誤読と曲率:意味空間のジオメトリー

同じテクストでも、人によって解釈が異なったり、あるいは作者の意図から大きく外れた誤読が生じたりすることがあります。この現象を幾何学になぞらえてみると、一種の空間の曲率に喩えることができます。物理学において、質量によって時空が湾曲し光の進路が曲げられるように、読者の先入観や文脈もまた意味の空間を歪め、解釈(読みの経路)に影響を与えるのではないか、という比喩です。曲率がゼロのユークリッド平面では平行な光線は永遠に交わりませんが、曲がった時空では平行に放ったはずの光がやがて一点に収束することもあります。同様に、正しく読めば平行に進んだはずの解釈が、何らかのバイアスによって思わぬ方向に曲げられてしまうことがあるでしょう。これが「誤読」の幾何学的イメージです。では、このアイディアをもう少し具体的に掘り下げてみます。

前章までのモデルでは、テクストの意味空間はある種の「平坦な」舞台として扱ってきました。つまり、複数の読者がいても共通の意味空間$Z$上で解釈を議論し、読者間の違いはプルバックの取り方で表現しました。しかし実際には、読者ごとに意味の感じ方の空間自体が異なる可能性があります。極端な例を挙げれば、ある人にとって「自由」という語が肯定的価値を持つ一方、別の文化では否定的文脈で捉えられる、といったように、概念の曲率が社会や個人の経験によって変わりうるのです。こうした状況をモデル化するには、各読者に固有の意味空間$Z_i$を考え、それぞれの空間が微妙に「湾曲」しているとみなすことができます。

圏論的には、読者ごとの意味空間$Z_i$への射$f_i: X \to Z_i$を考え、それぞれの空間の性質の違いを曲率と呼んでみます。二人の読者AとBがいて、両者がテクスト$X$上のある点$x$について本質的には同じ解釈(例えば事実関係の理解)をしているつもりでも、もし読解空間$Z_A$と$Z_B$の構造(例えば距離や接続)が異なれば、その解釈は異なる曲率の座標系上に表現されます。結果として、AとBの解釈は互いに平行ではなくなり、長い物語全体を通してみれば徐々にずれていくでしょう。これはちょうど、球面上を真東に進む経線と、別の経線上を真東に進む経線とが、赤道から離れるにつれて収束・発散するようなものです。読解空間に曲率がなければ常に同じ距離を保っていたはずの解釈が、曲率ゆえに予期せぬところで交錯したり離反したりします。それが誤読(誤解)の幾何学的表現です。

やや抽象的な議論になりましたが、文学的な例で考えてみましょう。あるミステリー小説で、読者Aは素直に物語を追い犯人はXだと推理した。一方読者Bは被害者の心理に深く感情移入しすぎた結果、物語の仕掛けを深読みしすぎて犯人はYではないかと誤読した――とします。このとき読者Bの「感情移入しすぎ」というベクトルは、読解空間における一種のねじれを生んでいます。Bの内部では論理的には一貫していても(局所的な意味の繋がり自体はBなりに確保しているが)、それはAの持つ平坦な解釈空間から見ると歪んだ経路を辿っているのです。Bにとっては全ての伏線がY犯人説を支持していたように思えても、それは曲がった座標系で測った結果に過ぎず、客観的(平坦な空間)には整合しない。こうしてBは物語の真相から遠ざかってしまいます。この図式は、数学でいえば 平行移動したベクトルがループを回った後でずれて戻ってくる(接続の曲率による平行移動の非可換性) に似ています。読者Bは物語世界を一巡りした後、出発点(物語の設定)の解釈において読者Aとはずれを生じたまま戻ってきたのです。これが誤読の曲率効果と言えるでしょう。

もう一つ、層理論から直接引いた比喩を紹介します。前章で扱った層の例で、直線の層を円周(閉じた一本の環)上に構築するとどうなるでしょうか。たとえば、直線ではなくメビウス帯状にねじれた層の例を考えてみます。メビウス帯の上では「局所的には普通の関数(線)」に見えても、帯を一周して戻ってくると上下が反転しており、大域的にはもはや関数として整合しないという状況が発生します。数学者はこれを「ツイスト(捻れ)の入った関数」などと呼びますが、要は 一貫した解釈が存在しない 局所解釈の集合です。物語においても、作品全体を読み終えたときに「結局どの解釈も完全には矛盾を説明できない」ようなケースがあります。例えば非常に曖昧さを孕んだ前衛小説や、読者に解釈の余地を故意に残すポストモダン文学では、読む人ごとに筋の取り方が異なり、どれか一つが唯一の正解とは言えないことがあります。これは物語(テクストそのもの)に曲率が内在している例とも言えるでしょう。読者がいかに論理的に読んでも、作品自体がメビウス帯のようにひねられていれば、全員が同じ場所に戻ってくることはありません。各自が異なる地点に到達し、その多義性自体が作品の特徴となります。

この章の議論をまとめると、読解空間の曲率とは、解釈がどれだけ読み手や文脈によって歪められ得るかを示す概念です。曲率がゼロに近い読み方(フラットな解釈空間)では誰が読んでも同じように解釈できるかもしれませんが、曲率が大きくなるにつれて解釈の揺らぎが増し、誤読の可能性が高まります。文芸批評ではしばしば「誤読 (misreading)」も創造的行為として評価されることがありますが、その背景には意味の空間が一様ではないという認識が横たわっています。本節ではそれを幾何学的メタファーで表現しました。

では次の章では共感 (empathy) に焦点を当てます。物語を読むことで他者の心情に深く入り込む経験は誰しもあるでしょう。この共感のプロセスを、圏論における 自然変換 (natural transformation) という概念に喩えてみます。異なる視点同士を滑らかに橋渡しする自然変換は、読書を通じた心の変容を捉える上できわめて示唆的です。

共感という自然変換:視点のマッピング

読書の効用としてよく挙げられるものに「他者への共感力が高まる」という点があります。フィクションの登場人物の内面を追体験することで、自分とは異なる人生や価値観を疑似的に経験し、現実世界での他者理解につながる、という主張です。実際、心理学の実験研究でも小説を読むことで他人の感情や思考を読み取る能力が向上するとの報告があります。例えば2013年にScienceに発表された研究では、文学小説を読んだ被験者は他者の心的状態を推測するテストで有意に高い成績を示したとされています 。では、なぜ読書がこのような共感 (empathy) を促進するのでしょうか。それを圏論的視点から眺めると、自然変換 (natural transformation) という概念に行き着きます。

自然変換とは、端的に言えば「二つの関手(関数のように圏から圏への射)間を繋ぐ構造保存的な射」のことです。関手が圏の対象と射を対応付けていくものだとすれば、自然変換は関手同士を対応付ける第2の射、と言えます。重要なのは、その対応付け(変換)が「自然」である、つまり各対象に対してうまく整合的に定義され、しかも射(写像)の構造を保つ形でなされていることです。これは一見すると抽象的ですが、共感という現象を捉える比喩として非常に適しています。

前章までで、読者それぞれがテクストを解釈する枠組みは異なることを述べました(意味空間$Z_i$の違いや曲率の存在)。にもかかわらず、感情移入が起こるとき、私たちは自分とは異なるフレームの中にある登場人物の心情を、自分のフレームへと写し取ることができます。これは、異なる二つの関手――一つは「物語の出来事を登場人物の視点から解釈する関手」$F$、もう一つは「物語の出来事を読者自身の視点から解釈する関手」$G$――の間に橋渡しがかかるようなものです。物語中の各イベント(圏の対象に相当)に対して、$F$は例えば「主人公Aにとって悲しい出来事」という解釈を与え、$G$は「読者自身にとっては理解できる悲しみ」とか「自分にも経験のある悲しみ」といった解釈を与えるかもしれません。この対応が物語全体を通して 自然(無理なく一貫して)にできるとき、読者は主人公Aの心情を自分のことのように感じ取れた、すなわち共感が成立したと言えます。圏論的にいえば、関手$F: \text{Story} \to \text{Experience}$(登場人物の視点へのマッピング)と関手$G: \text{Story} \to \text{Experience}$(読者自身の視点へのマッピング)との間に自然変換$\eta: F \Rightarrow G$が存在した、と表現できます。各物語上の出来事$x$に対し$\eta_x: F(x) \to G(x)$という写像が定義され、それが物語の因果関係やストーリー展開(圏の射に相当)と両立する形で与えられている――これが自然変換の条件です。

共感の成立にはまさにこの条件が必要です。もし物語の途中で主人公Aが信じられない行動をとったと読者が感じて共感が途切れるとすれば、それは対応する自然変換$\eta$が「自然でない」すなわち物語の射と整合しなくなったことを意味します。逆に、どんな奇抜なファンタジー設定であっても、読者が登場人物の心の動きを終始追体験できたなら、$\eta$は全ての出来事に対して成立し続けたのです。このように見ると、共感とは物語の写像$F$を読者自身の写像$G$に変換する変換子$\eta$が存在することに他ならないと捉えられます。

この図式は単に比喩に留まりません。文学作品と読者心理の関係性を調べた認知科学の研究によると、読書中の脳は実際に自分が体験しているかのように活動する領域があると言います。登場人物が走れば運動野が、悲しめば感情の領域が共鳴すると報告されています。この 共鳴現象は、まさしく物語から読者への意味・感情のマッピングが生じている証拠でしょう。しかもそれは作品全体を通して一貫して生じる必要があります。途中でその共鳴が途切れる(キャラクターに感情移入できなくなる)と読者の興味は薄れます。優れた小説ほど読者を最後まで「同調」させ続ける力があり、読み終えたとき読者は登場人物と共に泣き笑いし、成長したような感覚を覚えます。それは読者の内部で自然変換$\eta$が物語全体にわたり定義され、読者の経験世界へ物語を写像し尽くしたからだと言えるでしょう。

このように共感と自然変換のアナロジーは、読書が読者にもたらす内面的変容を構造的に説明する面白い試みです。読書によって私たちは「他者になる」経験をし、自分の中に他者の視点を取り込むことができます。それはまさしく自分という圏から他者という圏への構造的なマッピングであり、そのマッピングが自然であるほど共感は深まります。先の研究が示すように、読書経験の蓄積は現実での他者理解力、いわば心の理論 (Theory of Mind) を鍛えると言われます。デヴィッド・フォスター・ウォレスも「本格的な小説の大きな目的は、孤独に閉じこもりがちな読者に他者の自己への想像上のアクセスを与えることだろう」 と述べています。読書とは、一種の心的な自然変換の訓練なのかもしれません。異なる人生を生きるキャラクターへの視点変換を何度も経験することで、我々の中に柔軟な変換子$\eta$が育まれ、現実でも他者の立場に自分を重ねる力が養われるのでしょう。

以上、共感という読書の情動的側面を圏論的メタファーで読み解きました。最後の章では読解という営み全体をもう一段メタな視点から眺めます。ここまで登場した層や圏の構造を統合し、読解空間のトポス性について議論します。トポス (topos) は論理と幾何を橋渡しする概念ですが、読書という行為の持つ世界構築力もまた、論理(意味の整合性)と詩的逸脱(多義性や虚構性)を内包した小宇宙を形作っているように思われます。そのあたりを考察してみましょう。

読解空間のトポス性:物語という小宇宙

圏論の深淵に分け入ってゆくと、「トポス (topos)」という概念に辿り着きます。トポスとは、一言でいえば「集合の圏とよく似た性質を持つ圏」のことです。もっと正式には「あるサイト(圏と特定の被覆の集合)上の集合値層の圏」と定義されます)。要するに、集合の持つ基本的な操作(射、直積、冪対象、サブオブジェクト分類子など)がすべて備わっている圏です。トポスでは論理演算(例えば対象の間の写像の存在や全称・存在記法)も内部で行うことができ、しばしば 「宇宙」 に喩えられます。実際、トポスの内部では独自の論理体系が成立し、それは必ずしも古典論理(二値論理)と同一ではなく、直観主義論理と呼ばれる別の論理になり得ます。言い換えれば、トポスという構造の中では自前の真偽の概念が定義でき、必ずしも外部の絶対的な真偽に従う必要がないのです。これはなんとも不思議で魅力的な性質です。

さて、読書の体験を振り返ってみましょう。優れた小説を読んでいる間、私たちはまるで物語世界という一つの宇宙に入り込み、その中の出来事を「真実」として受け止めます。登場人物が生き、泣き、笑う世界は、現実の物理法則や倫理から離れている場合すらありますが、その物語内部では整合的なルールが働いています。読者は暗黙裡にその世界のルールを受け入れ、登場人物の運命に一喜一憂します。物語世界の中では、現実では偽である命題(例えば「魔法使いが存在する」)が真になることもあります。しかし読んでいる間はそれに矛盾を感じません。これはまさに、物語世界が一つのトポスとして機能しているからだと考えられます。物語世界内部では独自の前提と論理が展開し、その中での真理値評価が行われているのです。読者は一種の移行操作によって、自分の意識を現実世界の圏から物語世界というトポスへと写しているとも言えます。

ここで、本稿で扱った構造を思い出してください。意味の層構造、局所と全体の関係(グルーイング)、読者ごとのプルバック解釈、解釈の曲率、共感という自然変換――これらすべてが合わさった総体が、実は一つのトポスになっているのではないでしょうか。具体的には、「テクストの部分集合系」をサイトとし、その上の「意味の層」の圏$\mathbf{Sh}(\text{Text})$を考えます。この圏は 集合の層 を対象として含み、さらに射(層の射)を備えた圏ですが、実はこれこそがトポス です。一般に「サイト上の層の圏はトポスである」ことが知られており、我々の設定でも例外ではありません。テクスト上のすべての意味解釈の集合、それらの射(解釈間の変換)を全部ひっくるめて考えると、それはトポスという極めてまとまりの良い宇宙を形作ります。そこでは「この解釈ではこの要素が真である」「あの解釈では偽である」といった評価が内部論理として記述できます。またトポスの道具立てを使えば、異なる解釈間の関係性(例えば一方が他方の特殊化になっている、など)を論理式で表すことも可能です。

この視点を持つと、読解という行為は単に既存の意味を受容するのではなく、一つの宇宙を構築する営みだということが見えてきます。著者が作り出した物語世界は、読者によって解釈されることで初めて具体的なトポスとして結晶化します。そのトポス内部では、読者が感じたあらゆること(テーマの理解、感情の起伏、人物像の解釈など)が要素となり、独自の論理と構造が生まれます。それは読者ごとに微妙に異なるでしょう。しかし核心にある構造(テクストに規定された構造)は共有されており、それゆえ異なる読者同士でも議論が成り立ちます。私たちが読書会で感想を語り合えるのは、各自が自分なりの解釈トポスを構築しつつも、共通部分としてのテクスト構造を参照しているからです。トポス理論の言葉を借りれば、それら読者トポス同士は同じ「分類トポス」を持つ、つまり同じテクストという始元を射影として持っている、と言えるかもしれません。

さらに踏み込めば、読者は読書を通じて 新たなトポスを再構築 しているとも言えます。例えばシリーズ物の小説を読む度に、その世界観は読者の中でどんどん肉付けされていきます。それはちょうど、ある基本トポスに新たな層が追加され、トポスが拡張されていくようなものです。一冊読むごとに自分の中の「物語宇宙」が豊かになっていく経験は、シリーズを追うファンには馴染み深いでしょう。そこでは帰属関手部分トポスといった概念も登場するかもしれませんが、専門的になりすぎるのでここでは割愛します。重要なのは、読解は動的な宇宙創生であり、その数学的モデルとしてトポスが適している、という点です。

最後に、トポスの内部論理に関連して興味深い指摘をしておきます。トポスの論理は一般に直観主義論理であり、排中律(二値の真偽どちらか)が成り立たない場合があります。これは文学の解釈にも通じます。多義的な作品や、敢えて謎を残す結末の物語などでは、読者の解釈トポス内である命題$P$が「真とも偽とも決まらない」まま留保されることがあります。例えば「物語のラストで主人公は幸福になれたのか?」という問いに対し、作品自体が明確な答えを与えない場合、読者内のトポスでは$P$は決定不能命題として扱われます。それはちょうど、直観主義論理で命題$P \vee \neg P$($P$または$P$でない)の証明が無い状況に対応します。もし続編が出て疑問が解消されれば、その読者トポスは古典論理的に拡張されるでしょう(排中律が成り立つブール的トポスになる)。このように、物語解釈の曖昧ささえもトポス論理の枠内で捉えられるのは驚きです。読書とは白黒はっきりしないグレーな真実とも向き合う行為ですが、それを数学的宇宙の論理として記述できる可能性がここに見出せます。

以上、この章では読解全体を俯瞰し、トポスという総合的構造の中に位置付けました。読者それぞれの内面に立ち現れる物語の宇宙は、論理と多様性を併せ持つトポスであり、読むことは一人ひとりが小さな宇宙を紡ぎ出す営みでもあるのです。

では最終章では、現代そして未来における読書体験に触れましょう。特に人工知能(AI)の発達が読書に与えつつある影響について考察します。私たちの「読む」という行為は、これからの時代、どのように変容し得るのでしょうか。そしてそれでも変わらず残るものは何なのでしょうか。

AIと未来の読書体験:変容する織り手と織り物

21世紀も四半世紀が過ぎた現在、人工知能 (AI) は私たちの読書体験を少しずつ変えつつあります。かつて紙の本をただ開いて読み進めるだけだった行為が、デジタル技術とAIの力で様々な形に拡張され始めました。未来の読書体験を占ういくつかのキーワードを、ここでは圏論的考察の締めくくりとして述べたいと思います。

第一に、パーソナライズされた読書が進んでいます。オンライン書店や電子書籍プラットフォームではAIが読者の嗜好や過去の閲覧履歴を学習し、一人ひとりに合わせた本の推薦を行います。これは言わば、読者ごとのプルバック(解釈)を 予測 し、その人に最適な次のテクストを提案する試みです。先にプルバックを「テクストと読者の交点」として捉えましたが、AIは膨大なデータから各読者の興味の射$g: \text{Reader} \to \text{Topics}$を推定し、これに合うテクスト$f: \text{Text} \to \text{Topics}$を見つけてくれます。極論すれば、AIは読者と本のプルバックを先回りして実現する「仲介者」「マッチメーカー」として機能し始めています。その結果、読者は自分では探し得なかった本に出会ったり、好みのジャンルを深掘りしたりしやすくなっています(もっとも、偶然の出会いが減り多様性が損なわれるリスクも指摘されていますが、それも含めて一つの圏の射としてモデル化できるでしょう)。

第二に、読書のマルチメディア化・対話型化が挙げられます。AI技術は文章だけでなく画像・音声・映像と結び付いた 没入型の物語体験 を可能にしつつあります。例えば、AR/VR(拡張現実/仮想現実)技術とAIを用い、小説の舞台を仮想空間に再現して読者が「歩き回れる」ようにした作品が登場しつつあります。また、読者が物語の登場人物とAIチャットボット越しに会話できる対話型小説も試みられています。これらは読書という行為の インタラクティブなプルバック とも言えます。読者の行動$g$が物語世界$f$にリアルタイムに作用し、物語展開(意味空間上の結果)が変化するのです。固定されたテクストから意味を汲み取る従来の読書像は大きく揺さぶられ、読者は 共同作者 にも似た立場になります。このような読書体験の変容は、意味生成のプロセスをますます動的な射のやり取りとして複雑化させますが、圏論的視点でモデル化することも十分可能でしょう(例えばゲームブック的物語を圏の射の圏と見做す、など)。

第三に、AI自身がテクストを生み出し読み解く存在になってきたことです。近年の大規模言語モデル(LLM)によって、AIが小説や詩を「執筆」することすら珍しくなくなりました。AIが書いた物語をAIが要約し、人間が読む――という循環も現実になっています。また検索エンジンの進化形として、AIが膨大な文献を「読み込んで」知識を抽出し、人間に報告する、といった使われ方もあります。言ってみれば、AIが我々の代理読者・代理解釈者となっているのです。これは読解行為の圏に新たな対象(AI)と射(AIの解釈)を加えることに他なりません。人間とAIのあいだで解釈の自然変換が起きるのか、AI同士で物語トポスを共有できるのか、といった問いはSFの世界のようですが、技術的発展によって無視できない問題になりつつあります。例えば、あるAI作家が紡いだ物語世界を別のAI読者がどのように理解するかを評価するには、我々は新たな「読解の理論」を要するでしょう。それは本稿で展開した枠組みの延長線上にあるかもしれませんし、全く異なる圏の登場かもしれません。

このように、AIと読書の未来像を概観すると、読書という行為そのものが変容していく可能性が浮かび上がります。AIは読書体験をより個別化し、インタラクティブで没入的なものに変え、さらには読者・作者という役割分担さえ再定義しつつあります 。しかし、そのような時代にあっても、本稿で論じてきた読解の構造――層としての意味、整合性の重要性、文脈との合流(プルバック)、解釈の歪み(曲率)、他者視点への変換(自然変換)、物語世界という小宇宙(トポス)――は依然として有効だと考えています。たとえ読み手が人間からAIに代わろうとも、意味の織り上げ(weaving)のプロセス自体は連続性を保つでしょう。AIが膨大な文章を読み解くときも、それは局所情報を統合し整合性を取る層の構成であり、知識グラフを構築することは一つのトポスを生成することに他なりません。要するに、読むという行為の圏論的本質は不変であり、その器となるメディアや主体が変わっても適用可能なのです。

最後に一つ、詩的な未来像を描いてこの章を締めくくりたいと思います。遠い未来、人工知能と人間とが共に物語を紡ぎ、共に物語を読み解く時代が来るかもしれません。互いに異なる認識の圏を持つ存在同士が、それでも一つの物語宇宙を共有できるなら、それは種を超えた大きな共感の自然変換が実現した瞬間でしょう。もしかすると「読む」という行為は、人間だけでなく知的存在一般にとっての普遍的な営みであり、圏論的に言えば「知性の圏における核となる関手」なのかもしれません。その関手がある限り、物語と意味の生成は続いていくでしょう。

技術が進んでも読書の未来は無限に広がっています。AIが関与することで読書体験は「個人化、アクセシビリティ向上、対話性強化」といった恩恵を受け、新たな地平が開けるでしょう。しかし、最後にページを閉じた後に胸に残るあの感覚――物語を通して何かを知り、感じ、自分が少し変容したような感覚――それはきっと、どんな未来でも変わらない読書の本質だと信じています。読むことは織ること。私たちはこれからも、言葉という糸で世界という布を織り続ける織り手であり続けるのです。

結論

本稿では、読書という行為を圏論的構造になぞらえて包括的に考察しました。意味の生成を層構造として捉え、読解における統合作用(グルーイング)やその失敗、「目が滑る」現象を説明しました。さらに、読者ごとの意味の違いをプルバックという普遍的構成で捉え、誤読のメカニズムを曲率という幾何学的概念で喩えました。共感に至っては自然変換という高次の射を導入し、異なる視点間の橋渡しとして位置付けました。最終的に、読解空間全体をトポスとして統合的に眺めることで、物語世界が一つの宇宙(論理体系)を形成することを示唆しました。現代的な話題として、AIの台頭による読書体験の変容にも触れましたが、それでもなお読解行為の圏論的本質は保たれるだろうと論じました。

文学と数学、感性と構造という一見かけ離れた領域を往復する試みは、読者の皆さんにとって容易ではなかったかもしれません。しかし本稿全体を通じて一貫しているのは、「読むこととは何か」への探究心と敬意です。数学的言語は決して詩的感動を殺ぐものではなく、むしろ異なる光を当ててその構造美を浮かび上がらせる手段でした。詩的逸脱に満ちた文章もまた一つの圏であり、そこに潜むパターンや関係性は、数学的モデルによって別の次元から眺めることができます。読むことの豊穣さを、層・圏・トポスといった概念を媒介に再発見する――その試み自体が一つの物語であり、皆さんそれぞれの中に本稿の解釈トポスが立ち上がっていれば望外の喜びです。


参考文献(一部抜粋)


  1. 例としてウォルフガング・イーザーの「呼応の場 (implied reader)」、スタンレー・フィッシュの「解釈共同体」など、文学理論では読者の役割を重視する議論が数多くあります。本稿では数学的アプローチに集中するため詳細には踏み込みませんが、興味深い類似点が多く存在します。 






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