「Sakai Muscle」は「誤訳」か?【『世界文学の21世紀』】

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翻訳する機械

先日、大阪メトロの公式サイトで発生した「翻訳」の問題が、ネットで話題になった。

堺筋線が『サカイマッスル線』? 大阪メトロ公式サイトの英訳が自動翻訳でめちゃくちゃに

最近ではどの企業も、機械による自動翻訳を導入している。私は普段の仕事で、大量の英文を翻訳しているため、機械が「堺筋」を「Sakai Muscle」と変換するような行為は、見慣れている。

けれども、それは本当に「誤訳」と呼べるのだろうか。

言語と言語の間には、つねに「翻訳できないもの」が潜んでいる。人間は、それを見ないふりをして生きている。だが、機械は、在るがままに、それを私たちに示してしまう。

文学と美術

私は昨日、「Peatix」で発見した、以下のイベントに足を運んだ。

都甲幸治『世界文学の21世紀』第二回「現代アートと現代文学」

美術批評家・椹木野衣さんの『感性は感動しない』を先日読み、印象に残ったため、ご本人からお話をお伺いしたかった。

感性は感動しない 美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書) [ 椹木野衣 ]
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しかし、都甲さんと椹木さんの対談は、意外な話題から開始された。

批評家の視点

都甲さんと椹木さんは、お二人とも朝日新聞、読売新聞で書評委員を務めており、2週間に一度は、会議で顔を合わせる関係だったらしい。

そして、その「書評委員会」で開催された忘年会で、椹木さんは、「お弁当の辛味噌」について発言した。

新聞社の会議では、書評委員にお弁当が配布される。だが、そのお弁当にいつも付属している辛味噌を、どのように使えばよいか判らない。

今まで誰もそれについて触れることなく、時間が過ぎてしまった。辛味噌は、誰の口にも入ることなく、捨てられる。

都甲さんは、椹木さんの着目点が、「美術批評家」的であることに感銘を受けたそうだ。

誰の目にも映っているが、誰もが視ようとしないもの。確かに、そのような「盲点」に自然に意識を向けるのは、椹木さんらしい。(ただ、当のご本人は「話のネタがなかったので」と告白していたけれど)

絵と言葉

やや予想外の切り口から展開された対談だったが、前半は、『感性は感動しない』の内容を中心に話が進んだ。

椹木さんは、絵を「見る」ことに注意を向ける。

絵だって、始まりも終わりも、問いも答えもありません。ただ、感じるしかないのです。そして、感じるということは「かたまり」として接することです。(椹木野衣『感性は感動しない』)

私たちは、美術館に行くと、作品の横に置かれた解説を読み、オーディオ・ガイドも使用して、絵を言葉で理解しようとする。

しかし、「絵」と「言葉」は違う。

言葉は「線条性」を持っている。文章には「始め」と「終わり」がある。それに対して、「絵」は、意味の糸が紡がれる前の「かたまり」として、私たちの目の前に存在する。

椹木さんは、絵を見た直後に、感想を述べない。適切な時間を置き、その「かたまり」を発酵させることで、豊かな批評が生まれる。

読点と呼吸

都甲さんと椹木さんは、新聞社に書評を提出する際のスタイルが異なっていた。

都甲さんが締切直前に原稿を納めるのに対し、椹木さんは、かなりの余裕を持って草稿を出し、それを何度も推敲する。

草稿を見直す間、椹木さんは文章に打たれた読点を眺めている。

日本語の読点は、読み手の呼吸を支配している。文を声に出し、読点の位置を、絶え間なく探す。

絵画的な新聞

椹木さんは、「新聞は絵画的である」と言う。

通常の書籍は、頁を捲りながら読むため、全体の内容が一目では判らない。しかし、新聞は、見たものがそのまま内容となる。段組も特殊で、他の記事との連関性もある。

漢字、ひらがな、カタカナの使い方で、読み手の印象が変化する。字と地の間を密にするか、疎にするか。

椹木さんの前では、書評も美術になる。

世界文学と普遍

対談の後半では、都甲さんの「世界文学」に話題が移った。

ここで、椹木さんは『「世界文学」の「世界」とは、universal(普遍)なのか?』と問う。それは、無数の「国」を包括する、上位概念としての「世界」なのだろうか。

都甲さんは、それはuniversalではないと答える。

国と国を移動する/させられる人々の言葉。それは「文学」ですらないかもしれない。

外側の現実

そこから、椹木さんは「アウトサイダー・アート」に触れる。イギリスの批評家ロジャー・カーディナルが、フランスの画家ジャン・デュビュッフェの「アール・ブリュット」(生<き>の芸術)を翻訳して生まれた概念。

アウトサイダー・アート入門 (幻冬舎新書) [ 椹木野衣 ]
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私は知らなかったが、日本では昨年、「障害者による文化芸術活動の推進に関する法律(平成30年法律第47号)」障害者文化芸術活動推進法)が公布、施行されていた。

これは従来、厚生労働省が管轄していた、障害者の文化芸術活動について、文化庁や経済産業省などの機関を新たに関与させ、推進を図るもの。2020年の東京オリンピック・パラリンピックを視野に入れ、制定された法律である。

しかし、その背景には、障害者の作品を、市場に流通させるという目的がある。国家が芸術に対し、一定の価値判断を行うこと。

これは、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』の世界が、姿を変えて、現実化した事態とも言える。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫) [ カズオ・イシグロ ]
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機械の芸術

対談の終わりでは、文学が内包する「怖さ」について語られた。何度読んでも理解できない物語。その「怖さ」こそが、私たちを惹き付ける。

それは、冒頭に記した「翻訳できないもの」に通じている。

絵を見るとき、私たちは、線形の言葉から遠く離れて、その「かたまり」を眼差している。

翻訳する機械が無意識に示すそれは、もしかしたら、誤訳ではなく、もうひとつの「芸術」なのかもしれない。

そんな事を、予感した夜だった。







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