穴-秘密/石-秘密
私は最近、千葉雅也さんの思考を興味深く追っている。近著『意味がない無意味』は、哲学の現在を識るのに良い本だ。
「無意味」には、2つの種類がある。無限に意味を喚起するブラックホールのような穴としての無意味。そして、それを塞ぐ石としての無意味。前者は「穴-秘密」(<意味がある無意味>)、後者は「石-秘密」(<意味がない無意味>)と称される。
千葉さんは本書で、後者の、私たちを「絶句」させるような無意味に関心を寄せる。けれども、このようにも述べる。
だが、二つの無意味は、同じ場所で重なっているのかもしれない。
同じ場所が、同時に穴であり、蓋でもある。意味を発生させる何かが、意味を遮断する何かにすり替わる。意味を遮断する何かが、意味を発生させる何かにすり替わる。我々の日常ではそうしたすり替わりが起きているのかもしれない……おそらくは偶然的に。(『意味がない無意味』より)
おそらく、そうなのだ。一見して対立しているこの両者は、実はすり替わりながら、同時に存在している。この本を読み終えた時、なぜか私は、ある記憶を辿っていた。
蟻は五日の雨を知る
子供の頃、私は家の前で膝を曲げ、地面を這う蟻の姿を追っていた。
コンクリートの隙間に覗く土から、無数の蟻が群がり、どこかへと散ってゆく。
夏草の匂いの中で、私はその不思議さに魅了されていた。
小石で巣の入口を塞ぐと、帰る道を失くした蟻が、どこへ消えるのかも見届けないまま、陽が傾く。
神様のような気分に浸った私は、満足げに自分の部屋に戻り、いつの間にか眠りに就いた。
雨の音が聴こえる。窓硝子を打つ水滴の跡を横目で眺め、私は、蟻の行方を思った。
次の朝、外へ出た私の目の前には、泥濘みに汚れた風景があった。
空を見上げると、鈍い色の雲が形もなく一面を覆い隠している。足元に蟻はいなかった。
だが、数日して、太陽が再び姿を現すと、その光に誘われるように、蟻は地表へと戻ってきた。
「蟻は五日の雨を知る」という言葉を、誰かから教えてもらった。
雨を予感した蟻は、身を衛るために巣の入口を塞ぐ。地中を縦横に広がる巣を、雨は垂直に浸透してゆく。
蟻は、水平に伸びた空隙に身を隠し、縦穴との接続を切断する。そして、時が過ぎるのを待つ。
地中に空いた無数の横穴。
この時、巣は、巣として存在しているのだろうか?
ドゥルーズの時代
昔、大陸哲学を読んでいた私は、デリダやフーコーと異なり、ドゥルーズの思想が現実的なものとして響かなかった。
彼が提唱した「リゾーム」も、何か肌感覚では理解できない、抽象的なものとして捉えていた。
だが、ネットワークが高度に発達した現代では、リゾームは、ごくありふれた概念としてイメージできる。
最近刊行された論集が表す通り、私たちは「ドゥルーズの21世紀」に生きている。彼の予感は、いまここに現実化している。
千葉さんとの出会いが契機となり、私は、一時期は離れていた哲学の世界に再び足を踏み入れている。
そして、時々は頭を空っぽにしながら、文章を書いている。それは、とても楽しい「無意味」な行為だと思う。
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