非可換な人生たちが結晶化するとき〜『海に眠るダイヤモンド』

海辺のダイヤモンド

序章:なぜ、このドラマに震えたのか

画面に映る海辺の廃墟、そしてそこで交錯する現在と過去――日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』(TBS系/2024年)を観終えたとき、私の胸には小さな震えが残っていた。物語の最後のシーンで、遠い記憶が波のように押し寄せ、知らず知らず胸の奥に仄かな光が灯った。それは単なる感動の発露ではなく、70年という時を超えた記憶の震動に心が揺さぶられた証だったのだ。なぜこのドラマは、ここまで私を震えさせたのか。

その理由を探ろうとするとき、まず浮かぶのは物語の構造そのものだ。昭和30年代の長崎・端島(軍艦島)と2018年の東京・新宿という、遠く隔たった時空が一つの作品に折り重ねられている。廃墟となった島に立つ現在の「私たち」と、かつて炭鉱の灯に照らされ生きていた若者たち。過去と現在の二重写しが幾重にも絡み合い、物語は進行する。その構造の巧みさにまず私は息を呑み、そして物語が進むごとに、その構造が内包するテーマ――燃え尽きるものと残り続けるもの忘却と記憶孤独と連帯――が静かに姿を現すにつれ、心の奥底が震えていったのだ。

私たちは普段、ドラマの「泣き所」や「胸アツな場面」で心震わせる。しかし本作で起きた震えは、それらとは少し異なる性質を帯びていた。大げさに言えば、これは作品と視聴者のあいだに生じた共振のようなものだ。物語の出来事が単に描かれるだけでなく、その描かれ方(構造)そのものが、一種の振動を生み出している。まるで映像・音・言葉のすべてが、私たち視聴者の中に眠る記憶や感情を呼び覚まし、見えない弦を震わせるかのように。このレビューでは、ひとりの視聴者として、その震えの正体に迫り、作品の構造的魅力と詩情について綴ってみたい。

第一章:非可換な人生たちが、物語の中で意味になるとき

物語を噛みしめるほどに感じたのは、人間の人生は非可換だということだった。数学で「非可換(ひかかん)」とは、順序を入れ替えると結果が変わってしまう性質を指す。人生もまた同じ。ある人の歩んだ道筋と別の人の歩んだ道筋は交換不可能であり、順序を並べ替えることはできない。けれど『海に眠るダイヤモンド』という物語の中で、その非可換な人生たちが交差し、絡み合うとき、不思議な意味の化学反応が起きていた。

1955年、炭鉱の島・端島に生きる若者・鉄平(てっぺい)と、2018年の新宿で夢を見失っていた青年・玲央(れお)。異なる時代を生きる二人が、物語の中で二重写しになる。演じる俳優は同じ神木隆之介であり、その姿形が瓜二つである設定は、まるで鏡合わせのようだ。

しかし、この二人の人生は決して「同じもの」ではない。それどころか、生まれた時代も環境も異なる非可換な軌道だ。鉄平は炭鉱の島で理想に燃え、玲央は現代の都会で虚無に沈んでいた。通常なら交わるはずのない二つの世界が、謎の老婦人・いづみによって橋渡しされる。玲央は彼女に「人生、変えたくないか?」と誘われ、時空を超えた物語に巻き込まれてゆく。この問いかけは、実は鉄平がかつて島に来た歌手・リナに投げかけた言葉でもあった。ここに早くも、過去と現在が音叉のように響き合う瞬間がある。

物語序盤、玲央の現在(2018年)から鉄平の過去(1950年代)へと時間が遡る構成は、一見すると奇をてらった非直線的な語りだ。しかしこの入れ子構造こそが、非可換な人生たちを一つの物語に束ね上げる鍵となっている。玲央の視点で過去が語られることで、私たちは単なる過去の追体験ではなく、「今、なぜこの過去が語られるのか」という意味を考え始める。単線的に1955年から順番に物語を見せられていたら、私たちは歴史劇をなぞるように鑑賞したかもしれない。だが2018年という現代から振り返る形式をとることで、過去の出来事一つひとつが現在に影響を与える因子として浮かび上がる。すなわち、非可換な個々の人生が物語という関数に入力され、出力として「現在の意味」を結ぶのだ。

たとえば、端島で必死に生きた鉄平の努力や挫折は、玲央という若者にとってどんな意味を持つのか。物語の中盤、玲央は端島の歴史や鉄平の人生を自ら調べ始める。彼は血の繋がりもない、単なる他人のはずだった。しかし、過去を知るにつれて玲央の中に変化が生じる。自らの空虚な日常に「過去から託された何か」を見出し始めるのだ。このとき視聴者である私もまた、玲央とシンクロするように心が動いていた。順序の異なる人生同士が出会い、互いに作用しあう。その出会い自体が、物語の中で大きな意味を帯びていく様に、私は静かな感動を覚えた。

非可換な人生たちが意味を持つとき、それは物語全体が一つの可換図式を描く瞬間でもある。過去から現在へと流れる記憶の矢印と、現在から過去へ向ける眼差しの矢印。その二つの矢印が物語のクライマックスで交わり、一つの円環(サイクル)を完成させる。

玲央が過去の真実に辿り着き、いづみ=朝子が胸に秘めた想いを明かす場面では、まさに時間軸を超えた物語の図式が閉じる感覚があった。それは数学でいう「可換図式」のように、別経路で辿った二つの旅路が同じ点に収束する様でもある。こうして、一見バラバラで順序も異なる人生たちが、物語の中で統合され、大きな意味の輪を形作ったとき、私の心はまた深く震えたのだった。

第二章:石炭とダイヤモンド──燃えて消えるもの、残って輝くもの

端島はかつて「黒ダイヤ」とも呼ばれた石炭で栄えた島だ。石炭は燃やせば熱と光をもたらすが、やがて灰となって消える。一方、ダイヤモンドは石炭と同じ炭素から生まれながら、強い輝きを永遠に宿すことから宝石の王とされる。燃えて消えるもの残って輝くもの――この対比が、『海に眠るダイヤモンド』というタイトルに込められた詩的メッセージではないだろうか。

物語の舞台となる昭和30年代、高度経済成長期の端島はまさに石炭が生み出す熱気に満ちていた。昼夜稼働する炭鉱、鉱員たちの汗と煤けむり、家族の笑い声と喧騒。地下深くから掘り出される石炭が日本を動かすエネルギー源であったように、鉄平や仲間たちの青春もまた熱く燃焼していた。しかし、その輝きは永久には続かない。石炭産業の衰退とともに、島の活気は次第に失われ、まるで燃え尽きた炭のようにひび割れていく。1964年、坑内火災と水没という決定的な出来事によって、島の未来は閉ざされてしまう。あれほど賑わった島は無人島となり、海に沈んだ鉱脈は静寂の中に眠ることになった。

だが、その中で消えずに残ったダイヤモンドがあった。それは形のある宝石ではなく、人々の心に宿った記憶の結晶だ。炭鉱の島で交わした愛、友情、家族の絆。幼なじみの朝子(あさこ)と鉄平が分かち合ったひととき、百合子(ゆりこ)や賢将(けんしょう)たちが未来を信じてもがいた日々、リナが歌で皆を励ました夜――そうした瞬間瞬間が、時を経て結晶化し、記憶のダイヤモンドとなったのではないか。燃え尽きて跡形もなくなる運命に思えた島の物語が、老いた朝子の胸に小さな宝石となって輝き続けた。そして現代(2018年)、朝子=いづみは玲央という若者にその宝石を手渡そうとしたのだ。

石炭からダイヤモンドへの変換には途方もない時間と圧力が必要だと言われる。物語の中で描かれた70年という歳月もまた、多くの人生の重みと苦難を内包していた。戦後復興期の貧しさ、島での過酷な労働、愛する人との別れ、夢破れる悔しさ――そうした圧力にさらされながら、それでも失われなかった尊いものがある。それこそがダイヤモンド、すなわち不滅の記憶や想いではないだろうか。朝子が作り続けた島の屋上庭園に咲いた花々は、炭塵にまみれた端島で見出された小さな輝きだった。やがて島を離れることになっても、あの屋上の花の記憶は彼女の心に残っただろう。それは過酷な環境で生まれた一輪のダイヤのように、絶望の中でなお希望を象徴するものだった。

「海に眠るダイヤモンド」というタイトルには、もう一つの含意があるように思う。海底に沈んだ島(過去の記憶)の中に、埋もれている宝石(真実や想い)があるということだ。玲央が朝子から聞いた昔話は、ただの郷愁ではなく未来への贈り物だった。それは過去に封じられたままでは光を放たない。しかし、玲央という次世代の手に渡ったことで再び光を得る。まるで長い間海底で眠っていたダイヤが、海から引き上げられて陽光を受けて煌めくように。燃えて消えるはずだった石炭の人生たちが、語り継がれることでダイヤモンドの輝きを帯びる。その瞬間に立ち会ったとき、私の心には希望にも似た震えが走った。

第三章:三人の女性たち──朝子の中に生きた三位一体

『海に眠るダイヤモンド』には三人の印象的な女性が登場する。幼なじみとして鉄平を支え続けた朝子、都会的で聡明な同級生の百合子、そして歌声で島にもたらした光・自由奔放なリナ。彼女たちはそれぞれ異なる背景と個性を持ちながら、物語の要所要所で重要な役割を果たす。

私は本作を観ながら、この三人の女性像が三位一体のように感じられてならなかった。三位一体とはキリスト教の父・子・聖霊になぞらえた表現だが、ここでは彼女たちの生き様が朝子という存在の中で一つに繋がっていく様を指したい。

朝子は島に生まれ島に育ち、端島という土地と運命を共にした女性だ。島を離れずに過ごした彼女は、ある意味で島そのものの魂を体現している。素朴で献身的、困難にもめげず、人々に寄り添う優しさを持つ朝子。その姿には、炭鉱の島で生き抜いてきた無数の女性たちの面影が重なる。彼女は鉄平への長年の想いを胸に秘め、陰ながら彼を支えるが、自分の幸せよりも周囲の人々のために尽くすことを選ぶようなところがある。その健気さと芯の強さは、端島の大地に深く根を張った一本の木のようでもあった。

対照的に百合子は、一度は島を出て長崎の大学へ進み、再び島へ戻ってきた知的な女性だ。戦中に被爆した過去を持ち、カトリックの家庭に育ちながら、自身は世俗的な自由を求める複雑な内面を抱えている。彼女は賢将と交際しつつも、彼の心が本当は朝子に向いていることを察しており、その苦悩を隠して強がり続ける。百合子は未来を見据える理性心に負った痛みを併せ持つ人物だ。島の映画館で働き、やがて労働組合の事務にも関わる彼女は、時代の変化を誰よりも敏感に感じ取っていたのではないか。テレビの普及で映画館が廃れていく様子や、労働環境の改善に向けた闘争――彼女は島社会の移り変わりの渦中に身を置きながら、自身の愛と友情の行方にも思い悩む。百合子の瞳に映る世界は常にリアルで、その現実感が物語に一本の硬質な芯を通していた。

そしてリナ。彼女は外の世界から端島に流れ着いた渡り鳥だ。偽名で身を隠し、逃げるように島に来た彼女は、当初こそ周囲に心を開かず謎めいていた。しかし歌手としての才能と誇りを持ち、理不尽な扱いには毅然と立ち向かう強さがある。鷹羽鉱業の取引先に侮辱された際、リナは怒りと悔しさを露わにしたが、鉄平の機転で島民総出の「端島音頭」による意趣返しが行われたとき、彼女は初めて笑顔を見せ仲間に溶け込んだ。孤独だったリナが島で友情と愛情を知り、進平との愛に生きる決意をするまでの物語は、再生と解放のプロセスだったように思う。過去に背負った闇(ヤクザに追われていたこと)を告白し、進平と心を通わせ、やがて子を成し新しい家族を得る――それはリナという女性が自らの居場所と未来を掴み取った瞬間だった。

この三人の女性たちは、それぞれ島に生きる女性の三つの相を示しているようでもある。朝子が「地に足の着いた根」とすれば、百合子は「知性と苦悩の精神」であり、リナは「自由と変化の翼」だ。三者三様の生き方がありながら、彼女たちは互いに影響を与えあい、支え合って物語を紡いでいく。そして年月が流れた先の2018年、朝子(いづみ)の中には二人の姿が強く刻まれているように感じられた。かつて共に笑い泣きした百合子の聡明さや葛藤、リナの情熱と勇気――そうしたものすべてが、老いた朝子の静かな眼差しの中に宿っているのだ。まるで朝子という器に、百合子とリナの魂も同居しているかのように。

これは比喩的な言い方だが、朝子は自分一人の人生を生きたのではなく、三人分の人生を生きたのではないかと思える瞬間がある。鉄平や賢将たち男性陣がそれぞれの道を歩んだように、女性たちもまたそれぞれのドラマを生き抜いた。しかし最後に物語の証言者として残ったのは朝子一人だ。だからこそ彼女は、三位一体とも言うべき3人分の記憶と想いを、その身に宿しているのではないか。三人が一つになり、朝子という名の記憶の女神が現在へ物語を手渡す──そんな幻想さえ抱いてしまうほど、朝子から百合子やリナの気配を感じ取ったのだ。それは、かつて百合子が身に着けていたメダイのネックレスの微かな輝きかもしれないし、リナが歌ったジャズの調べの残響かもしれない。朝子が語る言葉の端々に、私は二人の存在を感じ、胸が熱くなった。

三位一体とは本来、一人の存在が同時に三つの位格を持つという神秘だ。朝子・百合子・リナの三人は人間だから文字通りの神秘ではない。だが記憶という奇跡によって、彼女たちは一つに結ばれている。朝子は二人を忘れず、その人生を自らの中で生かし続けた。百合子もリナも、彼女の記憶の中で決して消えることなく共に生き続けているのだ。朝子が玲央に過去を語るとき、そこには鉄平や進平たち男たちの物語だけでなく、三人の女性たちの魂の物語も含まれていた。私はそのことに思い至ったとき、言いようのない畏敬の念に打たれた。誰かが覚えていてくれる限り、人は決して完全には死なないという。このドラマは、記憶による永遠の命を朝子という人物に託し、三人の女性の物語を三位一体のように完成させてみせたのだ。

第四章:映像 × 身体 × 構造──ドラマという詩的空間

『海に眠るダイヤモンド』が単なる物語以上の「詩的空間」として立ち現れた要因に、映像と身体と構造の融合がある。映像美、役者の身体性、物語構造――これら三つの要素が高い次元で調和したとき、ドラマは詩のように多義的な響きを帯びる。私は鑑賞中、場面ごとにその融合の妙に感嘆し、まるで一篇の長編詩を読み解いているかのような感覚を覚えた。

まず映像。端島の情景を映し出す映像は、それ自体が一種の詩だった。昭和30年代、密集したコンクリートの団地と石炭の粉塵が降る空、鉱員たちのランプの灯りが揺れる坑道。ノスタルジックでありながら生々しい色彩で描かれる過去の島は、観る者をタイムスリップさせる力があった。一方、2018年の東京のシーンでは、新宿・歌舞伎町のネオンや高層ビルの夜景が映し出される。人工的な光に彩られた現代都市と、石炭の炎で照らされた昭和の島――光の質感のコントラストが美しく、過去と現在の世界観の違いを鮮烈に浮かび上がらせていた。特に印象的だったのは、廃墟となった端島のモノクロームのような映像と、若き日の端島のカラフルな映像を重ね合わせる演出だ。崩れ落ちた建物の映像に、かつてそこで笑い声をあげていた人々の姿がフラッシュバックする瞬間、映像自体が詩になっていた。記憶の残像を視覚的に表現したその手法に、私は鳥肌が立つ想いがした。

次に身体。役者たちの身体を通じて伝わるものが、このドラマには非常に多かった。鉄平と玲央を演じ分けた神木隆之介の所作や表情の違いは、そのまま時代と人格の違いを体現していた。鉄平として画面にいるとき、彼は炭坑夫たちと肩を組み、額に汗して坑内へ駆け込んでいく。背筋を伸ばし、どこか誇り高く歩く様は、島の未来を信じ突き進む若者そのものだ。一方、玲央として新宿の街に立つとき、猫背気味でポケットに手を突っ込み、目線は定まらずどこか怯えたような影を背負っている。同じ人物が演じているとは思えないほど、身体の表現で別人を見せてくれた。老婦人いづみ(朝子)を演じた宮本信子の存在感も圧倒的だった。静かに紅茶のカップを持つ手のしぐさ、時折遠くを見つめる瞳の奥に宿る悲しみと誇り――長い年月を生き抜いた女性の身体そのものが語るものがあった。杉咲花の演じる若き日の朝子が見せる笑顔と涙、池田エライザ演じるリナの艶やかな舞いと歌、土屋太鳳演じる百合子の凛とした立ち姿。俳優陣の身体表現が、言葉以上にキャラクターの詩情を伝えていた。

そして構造。構造についてはこれまで各章でも触れてきたが、ここでは演出面での構造美について述べたい。物語は時間軸を前後しながら進むが、その切り替えのタイミングと手法が非常に洗練されていた。例えば、玲央が廃墟の端島を見つめるシーンから一瞬で1950年代の端島にカットが切り替わる場面。現代の荒涼とした無音の風景から、一転して往時の笑い声とざわめきが立ち上る。このとき視聴者の脳裏では、静と動、死と生の対比が一瞬で立ち上がり、まるで詩の一節のような強烈なイメージが焼き付く。構成上の仕掛けも見事だった。序盤に提示された謎(老婦人いづみの正体、玲央と端島の関係)は、物語が進むにつれて少しずつヒントが与えられ、中盤でDNA鑑定という形で衝撃の事実が明かされる。いづみの本名が朝子であると判明するシーンでは、まさに物語の構造が観る者に悟られる瞬間であり、点と点が繋がって一気に絵が浮かび上がる快感があった。

ドラマという総合芸術は、このように映像(Visual)身体(Physical)構造(Structure)の三位一体で成り立つ詩的空間なのだと再認識させられる。本作では、それぞれの要素が単独で優れているだけでなく、互いに響き合い補完し合っていた。美しい映像が役者の演技を引き立て、役者の存在感が物語の構造に説得力を持たせ、練り上げられた構造が映像と演技に深みを与える。たとえば、クライマックスで現代の玲央が過去の鉄平と心象風景の中で向き合うような演出があったが、そこでの神木隆之介の一人二役の演技と映像の合成は、この上なく詩的だった。時空を超えた対話を映像化するという大胆な構造演出を、彼の演技と映像技術が支え、夢のような瞬間をリアルな感動として立ち上がらせていた。

詩的空間とは、解釈が一つに定まらず、観る者それぞれの心に様々な情景や意味を喚起する空間である。本作において、映像・身体・構造の融合が生み出したシーンの数々は、まさに鑑賞者ごとの心の中に異なる詩を立ち上らせただろう。ある人は端島の夕焼けのシーンに郷愁を覚え、ある人はリナが歌うジャズに未来への微かな希望を聞いたかもしれない。私自身は、鉄平と朝子が屋上庭園で過ごす穏やかなひとときの場面に強く胸を打たれた。夕陽に染まる花壇の横で呟く朝子の声、その肩越しに見えた鉄平の複雑な表情。映像は静止画のように美しく、二人の身体は緊張とも安堵ともつかぬ空気を湛え、物語構造的には「別れ」の予感を漂わせていた。台詞以上に雄弁なそのカット一つに、私はドラマという詩の深みを見た気がしたのである。

終章:震えが残したもの──そして、記憶は未来へ渡される

全十話にわたる長い旅路を経て、物語はひとつの決着を迎えた。しかし、物語が終わってなお、私たち視聴者の胸には小さな震えが残り続けている。その震えこそ、本作が我々に残した宝物ではないだろうか。物語の登場人物たちが繋いだ記憶の連鎖は、テレビのこちら側にいる私たちの心にも確かに渡された。そしてその記憶は、きっと未来へと受け渡されていく。

玲央は朝子から受け取った記憶を胸に、新たな人生を踏み出すだろう。彼が社長秘書として未来を託されるIKEGAYAという会社は、単なる職場以上の意味を帯びている。いづみ(朝子)が築いたその会社は、おそらく彼女にとってもう一つの家族であり、自分の人生を通じて成し遂げたかった夢の結晶なのだろう。玲央がそれに関わったことは、まさに記憶が未来へ手渡されたことを象徴している。血の繋がりが無くても、人は想いを受け継ぐことができる。玲央と朝子の関係は、家族以上に不思議な「魂の縁」を感じさせた。見ず知らずだった若者が過去に触れ、他人の人生を知ることで、自分の生き方を変えていく。それは他者の記憶を引き受け、新しい物語を紡ぎ始めることに他ならない。

同時に、私たち視聴者も玲央と同じ立場にいたのだと思う。私たちは朝子の語った端島の物語を玲央と共に聞き、鉄平や百合子、リナたちの人生を追体験した。ただ画面を眺めていただけではなく、心の中で彼らと泣き、笑い、祈った。だからこそ、ドラマが終わってもその記憶が自分の中に生き続け、震えとして残ったのだ。記憶の継承とは大げさかもしれないが、この作品が描いた70年の愛と青春と家族の物語は、確かに私の中に種火を灯した。時代は移り変わっても、人の営みの本質的な部分――愛すること、働くこと、悩むこと、希望を繋ぐこと――は不変であると教えてくれたように思う。その普遍的なメッセージが、記憶のダイヤモンドとなって心に沈んでいる。

震えが残したもの。それは言葉に尽くせば「感動」や「教訓」と表現できるのかもしれない。だが、本作の場合はもう少し得体の知れない余韻として私に宿った。例えば夜、ふと静かな時間にこのドラマを思い出すとき、胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。それは直接的な涙や笑顔ではなく、人生そのものへの愛おしさのような感覚だ。誰もが自分の物語を生き、やがて消えていく。けれど、その物語は他者の中に記憶として残り、新たな物語へと受け渡されていく。そう考えるとき、人生の儚さと尊さが胸に迫り、静かな震えとなる。『海に眠るダイヤモンド』は、フィクションでありながら、まさに私にそうした人生観の深淵を覗かせてくれた。震えとは恐れや悲しみだけではなく、尊いものに触れたとき人が感じる魂の共振なのだと教えてくれた気がする。

最後に、この震えをこう表現したい。端島の海に沈んだままの記憶、それは決して失われていない。朝子という人を介し玲央へ、玲央から私へ、そして私から次の誰かへと、その記憶のダイヤモンドは手渡されていく。私が感じた震えは、そのダイヤモンドを受け取った瞬間のきらめきだったのだろう。それはこれからも折に触れて胸の中で光を放ち続け、次の物語へと繋がっていくに違いない。

補章:構造図・圏論的補助メモ

※本章では、物語の構造を圏論的な視点から簡潔に整理してみます。(専門的な比喩ですが、興味のある方への補助メモとして)

  • 非可換な人生と物語の関数:人生Aと人生Bという2つの出来事の並び替え(A→B と B→A)は結果を変える非可換な操作です。本作では「現在→過去」の順序で物語に組み込むことで、過去(鉄平)と現在(玲央)の人生を関数的に合成し、Narrative(A→B) ≠ Narrative(B→A) の効果を巧みに活かしています。時間軸を交錯させる構成によって、順序の違いが意味の違いを生み出している点がポイントです。

  • 可換図式としてのストーリー:物語全体は、過去(Past)と現在(Present)と未来(Future)を結ぶ一種の可換図式とみなせます。過去から現在へ記憶を伝達する射(矢印)fと、現在から未来へ記憶を受け渡す射gがあり、直接過去から未来へ物語が作用する射hがあると考えると、最終的に g ∘ f = h(fの後にgを適用したものとhが可換)となるよう構成されています。ここで、fは朝子が玲央に過去を語る作用、gは玲央がそれを未来に活かす作用、hはドラマそのものが視聴者に過去の物語を伝えて未来へ繋ぐ作用とも言えるでしょう。結果として、過去→現在→未来という経路と、ドラマ→視聴者という経路が同じ「記憶の継承」という効果を生み、物語という図式が可換になったと解釈できます。

  • 三位一体と圏論的合一:朝子・百合子・リナの三位一体性は、圏論で言うところの余極限(colimit)のように捉えられます。三者のそれぞれ異なる人生というオブジェクトが、朝子の記憶という一つのオブジェクトに集約されました。この集約は情報を失うどころか、三者の属性を全て内包する豊かなものです。言い換えれば、朝子 = colimit{朝子, 百合子, リナ} とでも表現できるかもしれません(少し強引な比喩ですが)。圏論的には複数の対象から一つの普遍的対象への射が存在するイメージで、朝子の中に三人の女性の“射影”が収まっているような構造です。

  • 視聴者と作品の共振(自然変換):圏論で関手(functor)という概念があります。ある圏から別の圏への構造保存的な写しです。ここで、作品世界の圏C(登場人物や出来事の関係)と視聴者の内面世界の圏Dを考えます。ドラマを鑑賞することは、関手F: C -> Dが働いて、作品の出来事が視聴者の心象に写像されるプロセスと言えます。その際に起きる視聴者の感情の震えは、関手Fによって誘導される自然変換のようなものです。すなわち、物語の構造的な美しさやテーマが、視聴者それぞれの心(記憶や経験という別圏)に対応する何かを震わせる――二つの世界の間に自然に生じる変換が共振(レゾナンス)として現れるのです。これは厳密な圏論ではなく詩的な譬えですが、作品と視聴者のあいだに起こる心的変化を、一種の構造的対応関係として捉えたイメージです。

以上、物語を数学的メタファーで捉える試みでした。本編の鑑賞には全く知らずとも差し支えない部分ですが、構造への遊び心として感じていただければ幸いです。圏論的な見立てを離れても、『海に眠るダイヤモンド』という作品が多層的な構造深い余韻を持つ詩であったことに変わりはありません。その震えの構造を少しでも言語化できていれば、この文章の役割は果たせたと言えるでしょう。







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